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 ボックスのタイトル : 当地と戦国時代ほか
 題名 : 秀吉筆頭侍医/全宗

■知られざる甲賀出身/秀吉筆頭侍医・施薬院全宗とは   モリ・ダイニング・サプライ編

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本能寺の変のあと、秀吉には天下統一・天下平定、世継問題へと続く内政課題に重要な鍵を

握っていたという、知られざる甲賀出身の頭角をあらわした名参謀がいた。

比叡山に学び、医術の師/曲直瀬道三に学び、のち竹中半兵衛、黒田官兵衛、石田三成ら秀吉

側近武将とはまた違った異彩を放つ豊臣政権中枢に駆け上った施薬院全宗とはどういう人物

であったのだろうか。戦国乱世をその彼の洞察力で見事に生き抜いた生涯を追ってみよう。

 

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 秀吉との出会い

  全宗が秀吉に初めて会ったのは、京都二条御所・将軍義昭のところに比叡山/薬樹院院主

 として薬を届けに参上した当日、義昭の御所では人々を集め酒宴がもようされていた。

 招かれていたのは、聖護院門跡、大覚寺門跡、公家の山科言継、足利家家臣細川藤孝、

 そして永禄11年、信長上洛以来の京都奉行・御所警固役の木下藤吉郎秀吉らであった。 

 

  義昭にゆるされ宴の末席につらなった全宗だっやが、藤孝が囲碁の名手として全宗を紹

 介されるや、なんぞ面白い取り合わせかと義昭の下命で秀吉と対戦することになった。

  先手秀吉のあと、秀吉、扇を口元にあて全宗に語りかけてくるのであった。「わしは生

 まれてこのかた、まだ三度しか碁を打ったことがない。お歴々の前での大恥をかかぬよ

 う、少々手加減してはもらえまいか」あけっぴろげな秀吉の態度に思わずうなずいた。

  なるほど稚拙な碁の打ち方と手加減もそこそこに置いたつもりが、いつのまにか形勢は

 秀吉に有利、予想外ともいえる敵の大善戦。初心者のふりをする見事な作戦であった。

 秀吉この時34歳、全宗、比叡山・薬樹院院主となって良薬調合で評判の新進41歳であった。

 

 

 ふるさと甲賀郡から比叡山に学ぶ

  全宗は、大永6年(1526)近江国甲賀郡三大寺村で生まれ、幼名古沙丸という。

 父は霊峰飯道山の宿坊をいとなむ山伏、母は龍法師からきた山伏の娘、幼くして父を亡く

 し、全宗は山岳修験について薬草についての知識を得てのち、比叡山に入った。

 

  比叡山にはいって名を全宗としたのはこの時からで、のち病者救済・薬を施す薬樹院を

 知り移り、薬草本に触れ、甲賀より出て15年、瞬く間に高弟に上り詰めた。

  当時、薬樹院は薬によって洛中・幾内の豪商、大名による莫大な喜捨を受け、洛中一の

 土倉・明泉坊に匹敵する財力を誇り、前院主の死によって禁裏六丁目の広壮な別邸など労

 せず手にした。全宗はそこで没落した近江佐々木氏の筆頭家老の娘津留を娶っていた。

  元亀2年(1571)9月12日払暁、比叡山坂本の里坊、薬樹院奥の間で寝ていた全宗に侍者

 が駆けつけ、信長三万軍の比叡山焼き打ちを知った。薬樹院院主となって三年目、全宗は

 近習と共に洛中禁裏六丁目の別邸に難を逃れることとなった。

 

 

 将来への展望

  全宗は当時の支配階級には三つの勢力があると分析。ひとつは京の朝廷。もうひとつが

 寺社。そして三番目が新興著しい武家であり、信長はその頂点に立とうとしている。

  この先信長に対抗して比叡山の復興をはかるにせよ、僧侶を捨て新しい道を切り開くに

 せよ、今後の生き方を決めるには、今の世の動きを正確に知る必要があった。そこで、薬

 樹院での薬種納入で昵懇の二条室町に店を構える柊屋宗兵衛を訪ねた。

 

  柊屋宗兵衛によるといずれ世は織田さまの天下となりましょうから、いつまでも比叡山

 の僧侶のままではなにかと不都合だからとまずは還俗し、薬師の道を勧める。

 話しのなかでそういえば先ほど伺った菊亭大納言さまのお屋敷で面白いお方に出会いまし

 たと話す。そのお方とは、院主さまと同じように才覚ひとつで身を起こし、いまでは織田

 家の一将にまで上りつめている木下藤吉郎秀吉さまといいますという。

  全宗はハタと一年前を思い起こした。

 

 

 先駆ける横山城への行動

  姉川の合戦で浅井・朝倉を破った信長は、浅井の支城横山城を秀吉に預けていた。

 横山城での大将の木下の評判を聞くとそれが大変良いという。木下様は街道筋の宿場の年

 貢や課役を軽くなさり、浅井領との人馬の往来をお認めになされて、「なんてふとっぱら

 な」と街道筋の商人衆が口をそろえていっておりますという。全宗は、秀吉の町人・百姓衆

 からこれほどに評判が良く、これまでのように絞り取る領主とは全く違った、商業を活性

 化させる智謀に感心した。ひと、もの、かねが、それとなく秀吉の横山城下に集まる仕組

 みはさすがである。敵方の浅井領からも人が流れてくるではないか。

 

  横山城での虚無僧姿に怪しまれた全宗は、騒ぎを聞きつけた竹中半兵衛が出てきた。

 騒ぎのものどもを静めた半兵衛は、全宗を招き入れ、はなしを聞く様子が見えた。

  半兵衛は、全宗殿には伊吹山ふもとの成菩提院でお見かけしたことがあるという。半兵

 衛には全宗の姿をお見通しであったのである。全宗は毎年夏、薬樹院時代に伊吹山へ薬草

 取りに来ており、京への宿坊でもあった村里の寺院での出入りで出会っていたというので

 ある。見透かされた全宗は単刀直入に医を持って秀吉殿に仕えたいと申し入れ、元亀2年

 10月1日、竹中半兵衛の仲立ちにより正式に木下藤吉郎秀吉と対面することとなった。

 

 

 戦国時代の医学界の革命・曲直瀬道三の啓廸院(けいてきいん)

  曲直瀬道三は、湖国近江・栗田郡勝部村出身で、幼くして両親に亡くなられ京都のお寺に

 入っていた時、門地がなくても、大名・公卿と親しく接することのできる医者になりたいと

 医道の大家半井や吉田ではなく、下総古河・明国帰りの田代三喜に学んだことで道が開けた。

  39歳で京の町に医者の看板を掲げた道三は、患者個々の病状を精密に診断する現実に即

 した治療法でたちまちのうちに京での評判を呼び、やがて足利将軍義輝の侍医として吉田、

 竹田、半井、坂といった医の大家の中に異例中の異例で加わったのである。

 啓廸院はその曲直瀬道三が開いた新しい医術の学問の場であった。 

 

  秀吉との対面により、一年前の碁の相手をはっきりと覚えていた秀吉だった。このさい

 京の医家にでも入門し、医術の腕に磨きをかけてから、お側に仕えたい旨を申し入れるや

 京都奉行でもある秀吉から曲直瀬道三の学問所啓廸院への紹介状をくれる即断を下した。

  啓廸院でのそんなある日、秀吉から誘いがあった。秀吉の話とは、信長が最も恐れる甲

 斐の武田信玄の様子を探ってもらいたいとのこと。医術を心得ている全宗ならではの役割

 だった。全宗は甲斐に医師として潜入、武田信玄の薬師の一人として加わることに成功。

 そして三方が原の合戦の信玄の進攻策は信濃路からとの情報を全宗は得、甲斐を去った。

 この情報は秀吉から信長に伝えられ織田信長の戦略情報となった。

 のち、武田信玄は病をこじらせ亡くなり、信長は最大の危機を脱したのであった。

 

 

 京での暮らし

  甲斐調略のあと秀吉から長浜に招かれていたが、竹中半兵衛の全宗の医家として京での

 大名や公家の情報収集の重要性を秀吉に進言され、啓廸院にも戻ったがやがて曲直瀬道三

 の後継者玄朔らと考えを異にし独立、秀吉ゆかりの京の医学界の風雲児として登場した。

  天正5年秋、そんな全宗に珍客が訪れた。毛利の外交僧、安国寺恵瓊そのひとである。

 恵瓊は全宗に、秀吉に短気な信長につかず毛利につくよう働きかける話の内容であった。

 秀吉が毛利攻めの総指揮をとって播磨に向かう直前であり秀吉はもちろん一笑にふした。

 

  さていざ毛利攻めとなった播磨では、いち早く黒田官兵衛が味方となったが、副将の

 荒木村重が信長反旗の噂を撒かれ、戦線離脱をし本当に反旗をあげててしまった。

  天正7年、秀吉から播磨の陣に呼び出された全宗は竹中半兵衛の治療にあたった。半兵

 衛は全宗に説いた。私も秀吉さまについたのはあの方が私に代わって夢を実現してくださ

 るからだ。戦乱の世もやがて終わる。そのとき必要なのは侍大将ではなくまつりごとをお

 こなう明晰冷徹な参謀だ。全宗殿も私と同じ思いで秀吉殿に近づいたはず、ならばこそ帷

 幄の臣として秀吉殿に仕えて欲しいと言い残して去った。6月13日、36歳であった。

  

 

  本能寺の変

  

 

 

 

 
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