■技経肯綮之未嘗(荘子)より 庖丁(ほうてい)
(コウケイ)
肯綮に当たる肯とは骨肉、綮は筋骨。「急所をつく」という意味に使われる。
古来、時の権力者には美食家が多かった。
戦国時代中原に覇を争った粱(魏が国名を変えた)の恵王に、希代の名コック庖丁が
いた。
ある日、かれは恵王の前で牛一頭を割いてみせた。
そのさばきたるや肉と骨、肉塊が音をたててほぐれ落ちいにしえの舞楽「桑林の舞」
「経首の会」を思わせるもので、「イや、見事。これほどの技は見たことがない」と
恵王が感嘆の声を上げた。
すると庖丁は刀をわきに置き恵王にいった。
「いまのは、技ではなく道でございます。私もはじめのころは牛の外形しか見えませ
ん。3年ほどして骨や筋のありかがわかり、いまは肉眼にたよることなくさばけます。
ですから肯綮にあたることなく、刃こぼれもせず切り抜けらるのです。」
2)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
庖丁はさらに名人譚をのべる。
ふつうの料理人なら月に1本、腕利きでも年に1本の刀が必要かと思われます。
私は使いはじめてからすでに19年、何千頭の牛をさばいたかも知れませぬが、ご覧
の通り研ぎたてのように刃こぼれ一つなくピカピカです。
牛の骨節にはおのずと隙間があり、厚みなく刃を差し入れいささかの無理もなく、
ゆるりと刃を使いこなすことができるわけでございます。
ただ私も骨筋むらがり集まるところでは、こころとめ、目をそそぎ、刃の運びを
ゆるく細心の動きに徹し、肉塊の落ちるを見て四辺を見まわし、ゆるりと刃を拭い
しまいこむのでございます。
「りっぱじゃ。わしは庖丁の話から養生の道をも会得した」と重ねて感嘆した。
3)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われわれ人間の生命には涯(かぎり)があるが、その知欲には涯がない。
涯ある身をもって涯なき知識・欲望を追求することは危険なことだが、それと知り
ながりもこれに引きずられればますます危ない。
良い行いをしても名利によらず、邪道にはまりても刑戮に近づかず、善悪無心の
境地を守ってありのままにあることをすべての基本原理とすることだ。
さすれば身を保ち生をまっとうし、孝養天寿を尽くすことができるとされた。
庖丁の話は、人知のさかしらさを捨て無心に自然随順することが「生を養う」根本
の道と示唆するものであった。
われわれが料理のときに使う包丁の語源はこの名料理人庖丁の名に由来している。
(2005.08.11)
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