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 ボックスのタイトル : こころのうた(B)
 題名 : 学習ノート

■おうみ諸子百家研究会(会員:男女5人)  IT-現代感覚の新店/モリ・ダイニング・サプライ/有限会社モリ口

 

 

 

  世の中変わった。でも、変わらぬものがただ一つある。「近江商人十教訓」である。

 大切なものを失う社会を生み出している私たち自身、改めて商人の基本に立ち返ろう。

 

  1.商売は世のため人の為、人の為に奉仕して、利益はその当然の報酬なり。

  1.店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何(いかん)。

  1.売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる。

  1.資金の少なさを憂うるなかれ、信用の足らざるを憂うべし。

  1.無理に売るな。客の好むものも売るな。客の為になるのもを売れ。

  1.良き品を売ることは善なり。良き品を広告してさらに多く売ることは、さらに善なり。

  1.紙一枚でも景品はお客を喜ばせるものだ。

    つけてあげらるもののない時は、笑顔を景品にせよ。

  1.正札を守れ!値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ。

  1.常に考えよ。今日の損益を。今日の損益を明らかにしないでは寝につかぬ習慣にせよ。

  1.商売には好況、不況はない。いずれにしても儲けねばならぬ。

   ※没後20年、今人気の松下幸之助翁のことばにも上記が含まれています。 

 

                                     2008.09.19(金)

 

 

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  江戸期最大の人口集積都市・新潟の出雲崎の良寛さん最後のお言葉です。

 彼の生没年には異説があるそうですが、禅僧であり詩人であり歌人であり書家であった

 卓越した人でありながらの彼の生き方には多くの人々の共感と敬慕に時代を超えたもの

 があり、私たちに多くの示唆を与えそしてまた課題も残していてくださります。

  74才で床に伏しておられる良寛さまのところにたくさんのお弟子さまがこられて、

 良寛さまが思わずお礼の言葉を述べられたのが死の七日程前にこの台詞といいます。

 サラリとこんなセリフが生まれでてくるところに並みはずれた一言が凝縮されています。

  私達の別れの言葉も自然を愛した良寛さまのこころそのままに伝承されていくこと

 を願って止みません。

  …春、花が咲いたら私(良寛)と思ってたいせつにしてください。山でホトトギス

 が鳴いたら私(良寛)だと思ってたいせつにしてください。秋、紅葉が増してもみじ

 が色づき始めたら私(良寛)だと思ってたいせつにしてください。良寛さんは今も、

 生き続けておられます…

                                     2008.08.10(日)

 S.P.「夏ホトトギス」と記憶が、「山ホトトギス」と本にあった。こっちを正解にしました・・・

 

 

 〜〜〜

 五学のすすめ    2008.1.2(水)

 1)健康   ・・・まず、健康な身体づくりから始めよう。

 2)生命力  ・・・生きてる歓びをみなぎらせるパワーを持とう。

 3)常識   ・・・社会とかの関わりから学ぼう。

 4)仕事   ・・・自分の価値を高めよう。

 5)社会貢献 ・・・世の中のためになる働きをしよう。

 

 

 〜〜〜

 元旦のお参り

  お墓に参って、1年の報告をご先祖様にお話しましょう。

 新年のご挨拶のあと、菩提寺にお参りしましょう。

  その後にはお宮参りをしましょう。

 できれば、人代の神ではなく神代の神を、御祭りされている神社にお参りしましょう。

 神代(かみよ)の神とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)…天(あま)つ神と

 素戔鳴尊(すさのおのみこと)…国(くに)つ神のことです。

 私たちがさまざまな祈りや願いをかけてもいいのは、この2つの「神」だけだからです。

 

 

 〜〜〜〜〜

  ち  りょう ち 

 致 良 知             2007.10.26(金)

 

 「人は誰でも天から与えられた美しい心を持っている。

  しかし、それを我欲によって曇らせてしまうので、

  絶えず磨きつづけ、

  鏡のように輝かせておく努力をしなければならない。」

 

                近江聖人と呼ばれた偉人、中江藤樹の教えです。   

 

 

 

 〜〜〜〜〜

■近江聖人・中江藤樹 言行録より          

                             平成17年9月29日(木)記

 “五事を正す”

                                                

   1)視(し)  ・・・ よくみる。

   2)聴(ちょう)・・・ よくきく。

   3)思(し)  ・・・ まごころで思う。

   4)貌(ぼう) ・・・ なごやかな顔をする。

   5)言(げん) ・・・ やさしい言葉をかける。

 

  中江藤樹を代表することばのひとつとされる。

  滋賀県内にもひろく残り、ある役場の受付やお寺の客間、ひとびとの伝承などこころ

  あるたちのこころのささえとなっていまも立派に生残っています。

 

  ⇒関連サイト/藤樹神社は、こちらへ  ⇒滋賀県/歴史的人物は、“改訂中”です。

 

 

 中江 藤樹(1608年3月7日〜1648年8月25日)

 

  江戸時代初期の儒学者。日本に最初に一般の人々にも学問の火をともす。

 中江藤樹は、徳川家康の時代に滋賀県高島郡小川村に生まれたひとである。

 戦国時代が終わり、天下を平定した江戸幕府のはじめとはいえ、一介の名もなき人が歴史

 に名を残すのは大変なことである。

  それは彼が、数多くの徳行によって藤樹先生と親しまれ、没後には近江聖人とたたえら

 れたことによる。また、晩年には、中国明代の儒学者/王陽明のとなえた『致良知』の説を

 最高の教学として伝え、日本の「陽明学の祖」とされていることによる。

  中江藤樹は、子供の頃より諸学にこころざし、祖父中江吉長(よしなが)に導かれ小川村

 を離れ、はじめ米子に、そして10歳の時、藩主加糖貞泰の国かえで四国伊予に移り、15歳

 で祖父の家禄を継いで大洲藩士となった。

  11歳の時「大学」(心を正しくしよい政治をすることを書いた本)を読み、涙を流して感

 動したとされる。毎日のごはん、一粒のごはんも自分で作ったものではないことから、親

 というものがいなければ、自分がいない恩に目覚めたとされる。

  時折、母を訪ねては伊予に来るようにすすめたが知らない土地に行くのをこばまれ、27

 歳のときに藩士を辞して故郷にかえり、41歳で没する14年間、居宅に私塾/藤樹書院をひら

 き、武士や近隣の庶民に「良知の学」をおしひろめた。
  代表的門人に熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)、淵岡山(ふち・こうざん)、中川謙叔(な

 かがわ・けんしゅく)、泉仲愛(いずみ・ちゅうあい)、中西常慶(なかにし・つねよし)ら

 がいる。

  主な著書に『翁問答(おきなもんどう)』、『鑑草(かがみぐさ)』、『孝経啓蒙(こ

 うきょうけいもう)』、『論語郷党啓蒙翼伝(ろんごきょうとうけいもうよくでん)』、

 『大学考(だいがくこう)』などがある。
  昭和63年(1988)3月、中江藤樹生誕380年を記念して記念館が開館した。
 藤樹書院及び藤樹神社の宝物などを収蔵し、遺品や遺墨(いぼく)、著書の代表的なもの

 を展示し、あわせて陽明学関係など、8千冊におよぶ図書を所蔵、閲覧ができる。

 

 【中江藤樹】

  慶長13年(1608)3月7日、滋賀県高島郡小川村に生まれる。

  8歳の時、おこないがすぐれているので、みなに感心される。

  9歳の時、おじいさんにつれられて米子に移る。

  10歳の時、お殿様の国がえのため、大洲に移る。

  11歳の時、『大学』を読み、志をたてる。

  12歳の時、食事の時、父母、祖父母、殿様の恩を思う。

  13歳の時、賊をふせぐ。

  14歳の時、天粱和尚について、詩や書を習う。

  15歳の時、元服。おじいさんが亡くなる。

  17歳の時、京都の僧に『論語』の講義を聞く。

          昼は剣術、夜は『四書大全』を勉強する。

  20歳の時、はじめて、門人たちに『大学』を教える。

  21歳の時、『大学啓蒙』(本)を著す。

  22歳の時、小川村に母をたずねる。

  25歳の時、春また小川村に母をたずねる。

  27歳の時、仕えをやめ、小川村へ帰る。

          酒を売り米を貸して、くらしをたてる。

  29歳の時、この頃から村人や門人から藤樹先生といって親しまれる。

  31歳の時、大野了佐がたずねて、勉強をする。

  32歳の時、「藤樹規」、「学舎座右戒」をつくる。

  33歳の時、『翁問答』(本)を著す。毎朝「孝経」(本)を読む。

  34歳の時、熊沢蕃山が門人となる。

  37歳の時、「陽明全書」を読んで、いっそう学問にはげむ。

          「致良知」について教え始める。渕岡山(ふちこうざん)が門人となる。

  40歳の時、『鑑草』(本)を著す。

  41歳の時、慶安元年2月、藤樹書院ができあがる。

          8月25日の朝なくなる。

 

 

 〜〜〜〜〜〜〜〜

  王陽明 (1472年9月30日〜1528年11月29日)

   名は守仁。字は伯安。陽明は号。中国・明代における哲学者、政治家であり、浙江省

 余姚(よよう)市が輩出した中国最大の偉人、陽明学の始祖。

  はじめ朱子学を修めたが、南宋の陸象山の心即理説をうけ、これを根本原理として、知

 行合一・万物一体・致良知を主張する陽明学を確立した。
  陽明学は客観的哲学である朱子学とは対照的に、主観的哲学とされ、朱子学と並ぶ儒学

 の二大潮流の一つとなっている。

  中国王陽明と中江藤樹を結ぶ掛け橋として藤樹記念館裏に「陽明園」がつくられている。

 

 

 【熊沢蕃山】

 「1年の計を計るものは田を作り、10年の計を計るものは木を植え、100年の計をはかる

 ものは、ひとを養う」

 

 

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 【参照】

 

●朱文公とは 2007.04.01(日)  

 

 中国、南宋の思想家。朱熹 1130-1200

 中国、南宋の儒学者。朱子・朱文公と尊称される。北宋の周敦頤(しゆうとんい)、

程(ていこう)、程頤(ていい)らの学説を総合して朱子学を大成した。死後、朱子学が儒学の

正統とされ、官学に採用されたため、四書尊重の風など後世に大きな影響を及ぼした。

北宋の周敦頤(しゆうとんい)らの思想を継承・発展させ、倫理学・政治学・宇宙論にまで及

ぶ体系的な哲学を完成し、後世に大きな影響を与えた。のちの王陽明と対比される。

主著に「四書集注」「近思録」「晦庵先生朱文公文集」「朱子語類」「資治通鑑綱目」など

 (注)徳川幕府が採用した朱子学は、のち王陽明の陽明学派に問題提起される。

 

 

●『水五則』/黒田如水作 2006.08.04(金)      

 

  この「水五則」の作は、中国/王陽明とも近江聖人/中江藤樹とも弟子の熊沢蕃山とも

 いわれているが、一般には、『如水』と号した戦国時代の智将黒田孝高(黒田官兵衛)

 1546-1604 といわれている。彼の高松城水攻めの案は特に名高く、キリスト教信者

 であったことは意外と知られていない。

  彼の『水五則』は時代を超えた共鳴者も多く、秀吉天下統一の軍師を髣髴させる。

 

   黒田如水の『水五則』 ・・・ ⇒ こちら

 

 

 

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■中国の詩人                    モリ・ダイニング・サプライ編

 

【李白】(701-762)中国唐代の詩人。

  白髪三千丈/白髪三千丈

  縁愁似箇長/愁いによってかくのごとく長し

  不知明鏡裏/知らず明鏡の裏

  何處得秋霜/何れの処より秋霜を得たるかを

 

 《解説》

  白髪三千丈は、もちろん誇張的表現であるが、白髪の長くなったのをこう表現しない

 と李白の客愁の心が収まらなかったに違いない。

 金陵を去って、今61歳の老いの身でどこを目指して旅だったかは、じつは明らかではな

 い。金陵から揚子江をさかのぼって西に行くと、九江と金陵の中間あたりに貴池がある。

 この辺に秋浦がある。秋浦は、揚子江を上下するとき、通過する所である。

  東の大楼山に登ると、正西の方向に長安がある。もちろん見えないが憂愁の感慨だ。

 「秋浦の歌」/17首は、54か55歳の作とされるが、そのひとつではなはだ有名だ。

  「天の原 振り先見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」と謳われた友人の

 阿部仲麻呂を悼む「晁卿衝(ちょうけいこう)を哭(こく)す」がある。李白詩1100余首の

 ひとつで、人の死を悼む詩はほとんど作らなかったうちのたった3首のうちの一つだ。

 遣唐使として来た仲麻呂が唐の玄宗皇帝に仕え望郷の詩のままに当地に没した人だ。

  この詩も李白の老いの身の心に人の死が深く感ぜられたものであろうか。

 酒豪の李白ならでは作風におもいをはせられる。

 

 

【杜甫】(712-770)中国唐代の詩人。

  春望(春の望ナガめ)

 國破山河在/國破れて山河在り

 城春草木深/城春にして草木深し

 感時花溌涙/時に感じて花にも涙をそそぎ

 恨別鳥驚心/別れを恨みては鳥にも心驚かす

 烽火連三月/烽火 三月に連なり

 家書抵万金/家書 万金にあたる

 白頭掻更短/白頭 掻けば更に短く

 渾浴不勝簪/すべて かんざしに たえざらんとす

 

 《解説》

  国は破壊されてしまったが、山河はもとのままの存在している。都は今や春であるが、

 草木ばかりが生い茂り人影はない。乱世に感じては、美しい花にも涙が流れ、家族との

 別れに恨んで、小鳥のさえずりに心びくつかせる。烽火は、三月になってもやまないが、

 いまや家族からの便りには、万金のねうちがある。

  白髪頭を掻けば、抜け落ちるだけで、かんざしのさすところすらない。

  杜甫46歳の作といわれる大変有名な詩です。

 蕃兵のうろつく長安で憂鬱な日々を送っている杜甫である。春のある日、城壁のほとりを

 ぶらついてみると、見渡すかぎり荒廃した長安の町々である。目を城外に向ければ、山々

 は、青く連なり、河はこれまでと同じように流れている。

  激動する人の世と、永遠に変わることのなく厳然と自然のままに存在している世界とを

 しみじみと感じた杜甫である。一緒に暮らす家族であるはずなのに、別れ別れになり、遠く

 はなれたままの家族の安否を気遣い謳った。

 

 

【白楽天】(772-846)中国中唐代の詩人。

  對酒/酒に対す

 蝸牛角上争何事/蝸牛角上何事か争う

 石火光中寄此身/石火光中此の身を寄す

 随富随貧且歓楽/冨に随い貧に随い且らく歓楽せよ

 不開口笑是癡人/口を開いて笑わざる是痴人。

 

 《解説》

  唐代の文学は、その中心となる詩の変遷にしたがい、初唐(618-709)・盛唐(710-765)

 ・中唐(766-835)・晩唐(836-906)の四期に分けられるのが普通である。

  白居易は、寒族出身であり、官界に入り、相当の地位を得、文人としても活躍できた

 時代に移っていたために幸運の星のもとに生まれたといえる。

  上題の詩は、54歳頃の作といわれる。

 つまらない争いごとは、かたつむりの角の上に争うようなものだ。そしてまた、火打石

 の火花のようなものである。人間の一生は短いのだ。金持ちも貧乏人も口を開いて笑わ

 ん奴は馬鹿だよといっているワケだ。

  およそ人が生きようとする上での、基本的な考え方をすっかりかなぐり捨てて、この

 くらい人生を楽しんで生きてみたいとするこころがよく出ている。素晴らしい。 

 

 

セールスポイント

 詩にはこころがあり、その心が読めなくてはこころを知らず人はひとになれないという。

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