■贈りものの話から 范雎(はんしょ)、須賈(しょか)、魏斉(ぎさい)
中国古代戦国時代、戦国の七雄の一つ魏の国に范雎という人がいた。
学問ができ知識があったので彼は官僚として身を立てようとして諸国遊説の旅をした。
だが、家が貧しかったので長くは続かず、生活のため魏の中大夫須賈に仕えた。
その須賈が、魏の国の使者として斉に行くことになり、范雎も共の一員に加わった。
だが、斉との交渉はなかなかまとまらず、一行の滞在は数か月におよんだ。
「なに、魏の使者の中に賢人がいると申すか。」
「はい、范雎という人物、学問にも秀いで弁舌も理路整然とし、いまの魏の御使者など
足もとにおよばぬ人物とみました。」ある時、斉王にこう告げ口する者があった。
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「范雎、斉王がそちに贈り物をしてきたとは真か。」
当時の斉の国の指導者は、知識階層を食客や説客にし大切にされてきました。
肉と酒と黄金千斤が斉王から范雎に届いていて、魏の使者須賈の驚きは大変だった。
やがて交渉はまとまり一行は帰国の途についたが、贈り物の件は尾を引いた。
魏の宰相魏斉は魏の機密を売ったものと思い、范雎を捕らえ拷問白状させよと命じた。
まったくの濡れ衣であった。
凄惨な拷問から死んだものとして辛くも救われ、友人にかくまわれ回復を待った。
魏の国では生き延びられないと名を張禄と変え、秦の従者王稽に雇われた。
・・・・・・・・・・・・8/9つづく
秦の始皇帝から4代前破竹の勢いの昭王当時、国都咸陽に無事ついた張禄だったが、
弁舌の徒として紹介されてはいたが昭王に見舞えず一年が流れ過ぎた。
『名君は功ある者には賞、能ある者には官、労苦の多い者には禄、功績の多い者には
爵位を与う』とする意見書を書き送り、昭王の心を動かし会うこととなった。
范雎は、斉が楚を攻め広大な土地を支配しながら、近隣の燕、魏、韓、趙らに攻め入
られ結局失った歴史経緯を語った。が、范雎はこの時用心して外交政策だけを説いた。
その後この遠交近攻策は秦の基本戦略となった。
のち秦は魏を攻め韓を南北に分断し天下を取れるやに見えたが、范雎は秦には王様が
いないと考えていたのであった。
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范雎は、折を見て王とはどういうものかを説き始め、昭王はその結果政権の中枢から
肉親を遠ざけ実権も利害も手の内にある体制に移し、ついに范雎は宰相に任じられた。
宰相となった范雎は、隣国魏の仇敵魏斉を打つため糾弾の功作をはなった。魏斉は
それを知って趙の平原君に囲われた。が、秦の昭王に詰め寄られ魏の信陵君に助けを
求め戻ってきていたが、悲観して自害した。
范雎は昭王を天下人にするため次々と手を打っていった。戦国時代最大といわれる
長平の合戦で白起将軍は趙兵40万人を殺し大勝利した。が、范雎が趙と和議を結んで
からは白起の范雎への不信感は募り、昭王に従うことなく自害させらた。
范雎はかつての支援者を要職に推薦していたが、その者たちが失敗や汚職にまみれ、
秦の法では推薦人を処罰する法が生きている。范雎は暗く沈みがちであった。
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こんな時、蔡沢とうい説客が秦にやってきた。そして范雎にあった。
「水を鏡とすれば顔のかたちを見、人を鏡とすれば吉凶を知る」と説く。
秦に来て青雲直上の范雎に引き際をさとした。その昔、秦の商鞅、楚の呉起、趙の
文種、呉の伍子胥などは王の信頼を得、国のために働き国を強くしたが、王の死後、
どうなったを知るがよい。
こうして范雎は病と称し、昭王に隠居を認められ天寿をまっとうすることとなる。
屈辱をばねに一気に出世街道をのぼりつめた范雎であるが、秦の天下統一を目前に、
権力の座を惜しげもなく捨てきった。知恵者らしい身の処し方だった。(おわり)
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