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 ボックスのタイトル : 休憩室
 題名 : 淀君と北政所

淀君と北政所/現代から歴史を読むひとの出会いと生き方、処し方をさぐる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小谷城の落城

  天正元年(1573)旧暦八月末、茶々は、お市の方と二人の妹お初、小督と共に小谷城を

 あとにした。二日後、父浅井長政は織田信長の大軍の攻撃を受け城と共に自刃した。

 男子である万福丸と幾丸(お市の方の子ではないとも言う)は、父と共にはてた。

  お市の方が小谷城城主浅井長政のもとに輿入れしたのは永禄10年(1567)といわれ、

 織田信長の政略結婚といわれながらも幸せな日々であったといわれている。

 茶々は、輿入れの翌年もしくは翌々年生まれたとわれ5歳か6歳に当たる。

 

 浅井長政との対決

  織田信長は、将軍義昭と朝倉義景との関係を疑い、義景を上洛させ詰問しょうとしたが

 応じなかったため、元亀元年(1570)突然大軍を率いて越前に侵入した。

  義景は援軍を浅井長政に求め、長政は迷ったすえ先祖以来の交誼に組する父久政の意見

 に従い、義景に味方し、信長の退路を絶つべく兵を動かした。 

  この城内の動きを察知したお市の方は、兄を救うため袋の上下を縄でくくった小豆袋を

 信長の陣に届けさせ、信長は朝倉と浅井の挟撃に知ったといわれている。

 信長は長政のまさかの反逆に激怒し、三年余の月日ののち浅井討伐に成功したのである。

 

 秀吉とおね

  朝倉・浅井攻撃に最も功績のあった秀吉に長政旧領北近江三郡を支配する12万石の大名

 に取りたてられ妻おねは城主夫人となった。

  おねと秀吉の出会いは、信長の草履取りから出世して足軽組頭となっていた、同じ足軽

 組頭・浅野又右衛門長勝の養女となっていた尾張清洲城の同じ足軽長屋である。

 永禄4年八月、僚友前田犬千代(利家)の媒酌で秀吉26歳、おね20歳(14歳とも)である。

  秀吉は信長の天下不武のもと天正二年筑前守に任ぜられ、本能寺の変ではすぐさま光秀

 を討ち取り、翌年賤か岳の戦いで柴田勝家、天正12年小牧長久手の戦いでは和して家康に

 臣従の礼をとらせ天正14年10月27日天下に覇を唱えた。

 

  天正13年秀吉は関白に任官、おねは従三位に叙せられ北政所とよばれるようになったが

 おねは決して単なる温順な女性ではなく、むしろ秀吉の政治を理解し、よき相談相手で

 あった。そのためか秀吉は戦場の中にあっても常におねを思い、戦況を報告している。

 秀吉は数多くの側室にも同じような手紙を出しているが、軍事・政治に関する事柄に言及

 しているものは一通も見当たらないという。

  例えば天正15年、九州島津義久は遂に秀吉の軍門に屈し、その降伏状5つの条件を大阪

 城の北政所に書き送っている。その後も小田原戦初期城郭包囲の状況、朝鮮・明出兵のもく

 ろみなどは誰よりも先におねに打ち明けているのである。

 

 秀吉と茶々

  小谷落城の後、茶々の消息は不明であるが、突如として歴史に再登場する。

 天正17年5月27日、淀城で秀吉の長男鶴松を出産した。

  淀君と呼ばれるのは江戸時代になってからのことで、秀吉は出産のために茶々に淀城を

 与え、淀城に住まいしていたことから一般的には「淀殿」という。

  お市の方が柴田勝家と再婚し賤か岳の戦いで再び秀吉のもとに救われた茶々であるが、

 仇敵秀吉との因果はいかほどのものであったか推し測るものもない。秀吉には淀君のほか

 に16人もの側室があったといわれているが、子をもうけた女性は淀君だけである。

 

  一門の繁栄と政略のためには、実子があっても盛んに養子を迎えるのが当時のならいで

 秀吉にも、関白秀次(秀吉の姉の子)、小早川秀秋(おねの甥)、二代目秀勝(信長の子)、

 結城秀康(家康の子)、別格として八条宮(後陽成天皇の弟智仁親王)らがいる。

  

  実子誕生に驚喜した秀吉は棄て子はよく育つという民間信仰にならい「棄(すて)」と呼ば

 せた。四か月ばかり後の9月13日、棄は「鶴松」と改名され淀殿と共に大阪城に入城した。

 豊臣家の跡取として天下に知らしめんがための儀礼であったが、鶴松はふとした病をこじ

 らせ急逝する。秀吉も淀君も失意のふちに立つ。

  失意の秀吉は天正19年、関白を秀次に譲り太閤と称した。この頃すでに朝鮮出兵を考え

 ており、その実現のために後継者を決めておく必要があったからである。

  だがその二年後の文禄2年(1593)8月3日、淀君は再び男子を誕生させた。

 お拾いこと秀頼である。

 

  文禄4年7月、関白秀次が謀反の名のもとに一族とともに処刑された。

 慶長2年(1597)、淀君と5歳になる秀頼は宮中に参内し少将、中将と秀吉によって地位の

 確立を進められていくが、慶長3年8月18日、秀吉にとってあまりにも遅く生まれた6歳の

 秀頼の行く末を心配しつつ62歳でこの世を去るのである。

  秀吉は、秀頼には北政所を「まんかかさま(北政所の母上様)」を呼ばせていたが、秀吉

 亡き後、淀君と北政所は別々の道を歩むこととなる。

 

 北政所のおもい

  慶長4年正月10日、秀頼は母と共に秀吉の遺言に従って大阪城本丸に移ったのである。

 そして北政所は9月26日、大阪城西の丸を出て京都三本木に移り、翌27日、家康が大阪城

 西の丸に入った。

  北政所が秀吉との覇業の思いで深い大阪城を去ってなぜ家康に明渡したのであろうか。

 秀吉死後、政権内部の争いごとが一挙に噴出して秀頼後見役の前田利家が同年3月3日

 62歳でなくなるや争いがさらに過熱し、徳川家康が独裁的な力をふるうようになっていた。

  家臣団の文官派は淀君に取り入り、秀吉子飼いの北政所に世話になっている武断派は、

 淀君に反感を抱くようになったともいいます。

  常に秀吉の公的事業にかかわりを持ち、時代の行く末、家康の野望を見抜いていたか

 らこその行動であったのでしょうか。

 

 関が原以後

  両派の対立は天下分け目の関が原の戦い/慶長5年(1600)となり、小早川秀秋の裏切り

 で西軍が総崩れとなり、家康の勝利となった。

  関が原の戦いは、豊臣家の運命を急変させ淀君は秀頼65万石の一大名となった。

 そして家康のもと慶長19年(1614)大坂冬の陣、元和元年(1615)大坂夏の陣にて秀頼23歳

 淀君48歳の命を絶ったのである。

 

  北政所は関が原のあと論功行賞に河内一万六千石を、さらに慶長8年、高台院の院号を

 賜っていた北政所は、慶長10年、京都寺町にあった広徳寺を東に移し高台寺と号し寺領

 400石を受けた。

  北政所は、秀吉を通じで権力の前ではなんの抵抗も無益であることを悟っていた。

 むしろ実家の存続を願う当時の女性の生き方に周到し、生家の杉原家、養家の浅野家の

 存続を願い、江戸を通じ明治維新にまで至らしめたという。

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