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 題名 : 戦国時代の甲賀武士辺

■【当地私論】甲賀町からひと・歴史・こころを学ぶ。  〒520-3400滋賀県甲賀市甲賀町

 

  甲賀町は、鈴鹿山系南端・滋賀県南東部、三重県境に位置する人口12,000人の小さな町

 です。昭和30年4月1日、油日村、大原村、佐山村による合併に寄り誕生しています。

 今また、平成16年10月1日、旧甲賀郡7町より水口町、甲南町、信楽町、甲賀町、土山町

 5つの町から甲賀市が誕生して現在に至っています。

 しかし、これらは行政制度上の表現であり、生活実体は旧町のままです。

 

 隣国伊賀を支配したのは、藤堂高虎。

  甲賀町は、甲南町と並び甲賀忍者のふるさとです。先ごろ合併(平成16年11月1日)して

 誕生した南隣の三重県伊賀市は、同じく伊賀忍者のふるさとにあたります。

 伊賀市には近江国犬上郡藤堂村出身の城作りの名手藤堂高虎築城の伊賀上野城がある。

  天正伊賀の乱(1581)に父順慶とともに参戦した筒井定次が、天正13年(1585)秀吉から

 伊賀国守に任じられた。当初善政をしいていたが、慶長元年(1596)の夏、未曾有の旱天

 がつづき家老島左近(1552?-1600?)のやり方不届きなりと一方的な責めをおわされた。

  島左近は、こんな国守の元にはおれないと数人の家来と共に伊賀を出奔し、当時、水口

 岡山城主4万石の異例の出世をしていた石田三成に、自分の知行の半分・二万石もの厚遇

 で召抱えられ、のち彦根・佐和山に移って城を改築するや「三成に過ぎたるものが2つ、

 島の左近と佐和山の城」といわれた。筒井定次は、のち将軍秀忠に改易上意となった。

  これより先慶長13年夏、今治より藤堂高虎が転封されてきた。高虎は、服部半蔵正成

 血縁者で伊賀国余野に住む郷士(忍者)安田采女を藤堂姓と家老職を与え国政に参画させ

 る巧みな手法で以後、伊賀を長く安定させた。

 

 旧甲賀郡内に300もの城跡あり
  甲賀町には、城郭として

小さなものも含めると70、

甲南町には50あったと伝え

られ、400年の歴史があった

近江佐々木六角氏の居城中世

城郭随一の観音寺城の支配下

にあった。

 ただ、支配下にありながらも

上下の関係より共存共栄の助け

合いにあったと伝えられ、固有

の自治権のあった地域といわれ

ている。

 長亨元年(1487)9月、足利7代

将軍義尚近江守護職佐々木

六角高頼を攻めた時、甲賀衆

 は六角氏に代わりこれを攻め、その傷がもとで義尚は25才の若さで陣没している。 
  織田信長の子信雄が攻めあぐねた伊賀も、盟主のいない強い住民自治の地域であったと 

 いわれる。伊賀は甲賀と同じく自治権のあったところで一国惣、甲賀は郡であったので

 郡中惣といわれる支配地域であった。
  織田信長の上洛による観音寺城の反旗と、六角家の奇怪なお家騒動により六角氏が滅び、

 当地は伊賀よりいち早く織田家に追従するながれになった。

 

 〜〜〜〜〜
 堅物・蒲生氏郷が父賢秀「蒲生が一存で・・・

  北隣の日野城主蒲生下野守賢秀は、織田軍の進出に六角氏に呼応してこれと闘おうとし

 たが、遠縁の神戸友盛が切にいさめ、信長の人傑ぶりを賞揚したので、戦わずして降った。
 三重松阪、奥州会津若松への移封により近江商人の流れをつくった蒲生氏郷の父である。
  この賢秀は、殺された13代将軍義輝の弟覚慶(のち義昭)に決起を促した細川藤孝(のち

 幽斎)が甲賀郡油日村和田和田惟政館に匿われた時、いち早く献上品持参で訪れた。

 また本能寺の変では安土城留守居役で、家臣外池新介に命じて日野に急使を走らせ安土

 の奥方、姫君、御上臈衆をいち早く日野に避難をさせている。逃れるにあたり上臈衆に「天下 

 無双の城、蒲生が一存で焼き払ったとなればのちのちまで申し開きができぬ。」と、財宝に 

 まで一切手を付けなかったという。

 

  蒲生飛騨守氏郷(1556-1595)は13才で当時35才の信長のと初対面、人質でありながらも

 そのほんの一瞬の印象で大いに気に入られ、とものものとして付き従うこととなった非凡さ

 がある。のち信長の娘冬姫を娶り、信長の愛弟子とよばれた名将となった。

  彼の歴史における活躍は小さいながらも、伊勢松阪奥州会津若松への転封による信長

 直伝の楽市楽座近江商人への系譜には日本有数の貢献者ではなかろうかと考えている。

  のち秀吉をして奥州伊達政宗(1567-1636)目付けとして赴任に当たり「おぬしが、わしと

 同様、亡き信長さまの直弟子だからじゃ」と言わしめている。

 

 「や、これはまた一段とめずらしい−

  余談であるが、秀吉の小田原包囲戦の時、氏郷が、友人の細川忠興を誘って前田利家

 陣場借りをしていた高山右近陣所をたずね即席の牛肉料理(ステーキ?)を振る舞われた。

 「や、これはまた一段とめずらしい風味だ。」といって両人は大いに気に入り、以後たびたび

 このご馳走にありつこうと高山陣所を訪ねたという。

 

 ・・・・・・・・・・
 「バテレンの知識は日本の・・・よりすぐれておる

  当町出身の戦国武将に信長四天王の雄、長篠(設楽原)合戦の鉄砲術案は、大原村相模

 出身の滝川一益(1525-1586)である。私はもう一人の武将油日村和田出身のキリシタン

 大名和田伊賀守惟政(1532-1571)という人。彼は、甲賀武士五十三家のうち最も勢力

 のあった三家のひとつで、摂津・高槻城主にもなった人物でもあり、織田信長にはじめて

 ポルトガル宣教師ルイス・フロイス(1532-1597)を紹介したことでも有名だ。
  1569年4月、警備責任者に新参の木下秀吉を抜擢、石垣を高く築き上げ、御殿内部の入 

 念な装飾、庭には泉水・遣水・築山を配した将軍義昭のための二条城建築現場であった。

 陣頭指揮する信長は、堀の橋の上でフロイスを出迎え、橋板の上に腰を下ろし陽が当たる

 からとフロイスに帽子をかぶるように奨めた後、群集が取り囲む中、次々と質問を浴びせ

 2時間ほどでおわったという。

  のち、信長はオルガンチノから地球儀と世界地図をもらい小さな日本を知ることになる。

 この時「バテレンの知識は日本の坊主よりすぐれておる」といわしめている。 

  芥川城主和田惟政は、のち有名なキリシタン大名高山右近を生み出すなど、フロイスの

 著書『日本史』にも登場している。
 ※キリシタン大名和田惟政は、洗礼を受ける前に戦没してしまっている。

 

 和田惟政、村重配下の中川清秀に討たれる。

 この当時の話をするに当たって絶対見逃してはならない人物がここに一人いる。荒木村重

(1535-1586)である。

 一介の家老職から攝津随一の戦国武者に急成長している人物だ。もっとわかりやすくいえ

ば、中国攻めの任をもらった秀吉が四千人の配下であったのに対し、村重にはすでに高槻城

主高山右近や茨木城主中川正兵衛らを従え一万五千人の配下を握っていた。

 信長の京上洛で配下に加わったものの本願寺攻めで信長の命令拒否を堂々と行ってアッと

いわせたことや、有岡城の反旗など掻い潜りも生き延びて茶人になった人物だ。

 なお、配下の剛勇中川正兵衛に、信長の攝津守護職高槻城主和田惟政が討たれている。

 

 明智方に対抗・瀬田の唐橋を焼き落した、山岡四兄弟とは

  天正10年(1582)春、武田勝頼を討ちとって上杉謙信の名跡を継ぐ関東管領に就き、関八

 州を正に支配せんとする滝川左近将監一益に本能寺の変(6/2早暁)の報せを受けた

 のは、瀬田城主山岡美作守景隆(1525-1585)の家臣杉山小助が早馬を引き継いで7日

 正午ころ、上野国廐橋城(前橋)に入った。

 NHKドラマの山内一豊は、1560-67年頃、この山岡景隆の家臣だった。

  本能寺の変後、安土に攻める明智方に、交通の要衝・瀬田の大橋を守る瀬田城主とは、

 和田惟政の娘を母とする山岡景隆らである。この景隆・景佐・景猶・景友(のちの道阿弥)ら

 四兄弟は、京都の仕置きを済ませた光秀軍に「逆臣の通行を我が許すべき」と瀬田の唐橋

 を焼き落し、故郷の賀郡油日村毛枚に引き揚げてしまっていた。

  このことで光秀軍は安土に入るのが二日遅れ、その後の作戦に大きくひびいたと云われ 

 ている。山岡兄弟はこの後堺に出向いた家康一行の安否を気遣い信楽に出掛けている。

  一益は重臣を集め「国人どもに凶事を言い聞かせ、城を捨て上洛し弔合戦だ」と言い置く 

 と、家老の篠岡平右衛門は、かかる一大事を粗忽に披露するは考えもの、人質をとり上洛

 をすすめたが、信長公の横死は隠せないと新属人に公表させた。が、途中北条氏の反撃

 にあい伊勢長島城に帰城したのは清洲会議が終わっていた7月1日であった。

 

 関東管領・滝川一益、神流川の敗戦に涙のむ。

  本能寺の変が6/2、備中高松城主清水宗治切腹が6/3、陣払いに5日かかって山崎の合戦

 6/13、4万に膨れ上がった秀吉軍に光秀16000だった。柴田勝家の呼び掛けに清洲会議

 6/27が開かれ秀吉丹羽長秀池田恒興の四人の宿老で後継者を決めたのであった。

  滝川一益は当時有力な宿老であったが、関東赴任3ヶ月での変事と、上洛に際する北条

 軍との見苦しい神流川の敗戦(6/15)が響きはずされていたのであった。秀吉に敵対した

 ことで出家をし、越前で波乱の生涯(天正14年9月9日62才)を閉じている。

 むしろ関東に居座って・・・ と思うのは、同郷のもののふの切ない夢か。

 

  見落としがちなのが、その後の毛利の動きである。

 信長の死を下隠しに和議を結んだとあるが、実はほぼ出来あがっていた勝利であったらし 

 い。秀吉が信長を呼んだは仕上げを信長の出馬を仰いで成し遂げたいとの考えからだ。

  ただ安国寺恵瓊は、蜂須賀小六黒田官兵衛らとの協約は信長に対するものとのして

 山崎の合戦の後、難色をしめしてきた。もちろんこれは秀吉にとってかなりの難題であっ

 たが、老練の小六・官兵衛の手腕がその後の毛利を安定させたことが忘れられている。

  だいたい毛利家の家訓に「天下を競望すべからず」というのがある。勝てるとわかった

 時でないと、攻撃は仕掛けない。

 いまでも京都の商家では、後代を譲る時「大きくなさるなや」といい含めるという。

 

 〜〜〜〜〜
 篠山理兵衛、長束の策を見破り家康の難を救う。

  秀吉の死後、家康と大坂方とはしだいに険悪になっていく。上杉景勝征討に大坂を発し

 石部宿の家康に、豊臣家五奉行の一人、近江水口岡山城主長束正家が牛ヶ淵の茶室への

 招待を寄越した。この時、甲賀町鳥居野・篠山城篠山理兵衛景春は大原氏一族で早く

 から家康側につき、ご馳走をするという口実による家康暗殺計画と見破り、女駕籠を用意

 し甲賀衆の護衛のもと、夜陰にまぎれ疾風の如く水口城下を駆け抜け家康の難を救った。
  後、篠山理兵衛景春ら甲賀衆は、伏見城留守将鳥居元忠に請われ伏見籠城戦に討死す。

 景春の墓は、鳥居野・多聞寺にある。徳川幕政下で、篠山氏は代官職を与えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●家康の難を救った篠山備中守理兵衛景春の墓(甲賀町鳥居野/多聞寺)2006.01.05撮影

 

 体を張った割りに少なかった俸禄?

  天下分け目の合戦の後慶長8年(1603)、山岡景友(道阿弥)服部半蔵のふたり

 は、徳川家康から甲賀・伊賀忍者衆への俸禄の分配を委任された。甲賀百人組総師の山岡

 には総額9千石。伊賀組同心総師の服部には8千石。

  総師山岡は家禄として5千石、与力十人に各二百石、同心百人に各二十石と分配した。

 江戸期の年貢は、ほぼ四公五民、もしくは五公五民で、取り分は四割から五割だった。

 米一石とは、ほぼ二俵半。一人が一年間に食べる米の量であるから一俵18,000円とすると

 山岡は、約2,250万円の年収かしら?

 

 

 五事を正す−「視・聴・思・貌・言」
  当地近隣を紹介するもう一つの特異な事件は、江戸末期の天保義民による農民一揆があ

 る。天保飢饉による新検地など強引な取り立てに抗議し、幕府・市野茂三郎に詰め寄っ 

 た、当時4万人ともいわれる旧甲賀郡内を中心とした「10万日日延べ」の勝利である。
  しかし庄屋など11人の江戸送り刑死には、当地の天保義民として今もまつられている。
 当地には“五事を正す”という言葉が残されている。

 「視・聴・思・貌・言」− よくみて、きいて、まごころで思い、なごやかな顔をして、

 やさしい言葉をかける− 近江国高島郡小川村近江聖人・中江藤樹のことばだそうです。

 

 〜〜〜〜〜
  甲賀町は、農業、林業、薬業の町である。
 一次産業は昨今の衰退をもろに受けているが、いま、この町を支え活気付けているのは薬

 業である。店主も二代にわたる薬の系譜の持ち主ではあるが、現業に挑戦している。
 この町が薬業としての産業の切っ掛けは、近江商人を生み出した蒲生氏郷の出身日野町に

 ある。

  蒲生郡日野町は、江戸時代の商人五指の一人といわれる中井源左衛門(1716-1805)を

 産みだした町で、近江商人固有の「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」という三方良しの

 決してあせることなく実績を積み上げて行く牛歩の如き着実さの積み重ねであった。

 彼の飛躍的な成功は、長年の辛苦のはてにつくりあげた支店や信用、情報をいかし、日本

 ではじめての株式制度を採用し、かねて構想のあった大規模な産物廻しによる晩年の加速

 度的商勢だ。いまも、その日野の町には館跡が残っている。
  明治初年、油日村滝の渡辺詮五なる人物が薬業先進地の日野よりその手法を学びこの町

 に伝えたとされている。

 当時日野商人は、合薬、木綿、古手、生活物資等からその後、扱いを小さな薬に置きかえ

 ることによって、より運送が簡便となっていた。


 戦略構想にみる研究機関育成法により 

  戦後、アメリカの戦略構想にあるその研究機関の育成法に学び、関西のある製薬大手が

 当時の日本になかったラボラトリーを当地につくり研究に没頭できる環境を整えたのも当

 地の薬業の素地があったではないかと考える。

 今から20年ほど前には、各地に工業団地政策がとられ、当地もそうした開発がいち早くと

 られ、西ドイツ有数の国際的医薬品会社やスウェーデンの医科学メーカーなどが当地鳥居

 野に進出してきた理由にも、当地の薬業の素地が育ちかけていたこともあるのではと考える。

 ※スウェーデンの会社は先年中国へ移管している。  

 

  いま、成長著しい滋賀県下にはぐくみそだつまちとして、この甲賀町がある。

 日野から学んだ薬業は、たくさんの企業を輩出し技術レベルも格段に成長し、地場産業と 

 しての拡大路線に加え、大手製薬の製造工場として、また特許切れ後発医薬品で急成長し

 ている会社など産業成長著しい。

  商業の世界でも、大手百貨店のNO.2大番頭や、小売最大手副代表には我が地元高校

 の先輩が就任活躍している。

 

  500年前の忍者のまちとして、戦国時代の将士、今また薬業・新産業の町として次代の

 流れをいち早く予見し、地方としての立ち振る舞いの中にも新しい時代に生き抜かんと

 する、こころあふれる人々を生みだしかもすまちであると考える。

                                2006.03.12(Sun.)

 

セールスポイント

 どんなまちにも歴史がある。大切なのは、そこに暮らす人の歴史に学ぶ姿勢だ。

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