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■おうみ諸子百家研究会(会員:男女5人)  IT-現代感覚の新店/モリ・ダイニング・サプライ/森口栄誠堂(薬房)

 

 

 詠み人知らじ

  「問うは一端の恥(はじ)。問わぬは末代の恥(はじ)。」

  素晴らしいニッポンの伝承遺訓だ。解らないことをそのままにしておいて自分に進歩はない。

 そう思うとちょっと人に聞くのは恥ずかしい、かっこわるい、みっともない、いろんな事を自分に投げかけ、返って

 自分を「無知・薄学の徒」にしてしまうという警告のセリフである。

  ネット通販でもそう、疑問があるがそのことを尋ねて来られる方は少ない。勇気を出して、ちょっと電話で私に

 たずねさえして頂ければ、何とかムリも通せる場合がある。もっと良い結果が得られる矢も知れない。

 当社はそんな事業会社にしたいと、常々より考えている事業体なのです。

                                    2016.07.29(金)

 

 

 

 清国の大政治家- 宗棠(1812-1884)は、1871年(明治4年)露国の新疆省イリ地方占領に抗議、1881年奪還で有名。

  「不出世の英雄をこのようにして亡き者にする日本という国は 哀れな存在だ」

  明治維新の成立は日本民族の傑作であると評した彼が、維新の元勲第一人者に輝く西郷隆盛の死を知り吐いた

 言葉という。 1840年のアヘン戦争に敗れた清国の実力のないことが判るとロシアは、ネルチンスク条約を破って、

 アムール河に沿って東進し、1851年璦琿条約を強制してアムール河以北の土地を奪った。

 2年後には英仏軍に助けを出したとして沿海州を強奪した。ウラジオストックとは、ウラジー(占領せよ)

 オストーク(東方、東洋)のロシア語語源である。

  維新成立の小成に安心した日本人指導者は、たちまち島国根性を出し狭量な内部抗争に明け暮れている

 とし、興亡盛衰4千年の支那歴史の少しでも学んだものならば、国家の運命、民族の寿命といった大計を

 考えることなくして局面の小計に捉われているようなものは国家、民族の指導者とはいえないとした。

  ・・・・・

  小者は一の数字を一億回かけてみても答は一である。組織集団の国家としては、いかにして小者ならざる

 大者を発見し、育成し、支援協力し、そして大者に一億をかければ偉大な数字の答が出てくる。この簡単な

 法則をしらないのでは話にならないのではないか。 これが中国、今も大陸民族に定着している注目の要か。

 今話題、中国の食品化粧企業グループ、フランスに社員旅行6000人、17億円はCEOトップの采配と。

 (追伸!)明治5年8月、韓国背後の満州と北支地方動性派遣の池上四郎中佐より 宗棠折衝で対露知る。

                                    2015.05.12(火)

 

 

 

 五千円札で一躍有名になった新渡戸稲造(1862-1933)が太平洋の架け橋にならんとして出版。

  「1つしか知らないものは、その1つさえも知らない」

  彼が欧米人に日本を紹介するために日本人が誇りとする「武士道」を英語で表した名著である。

 教育者であり、特に女子教育の先駆けでもあった彼の心の拠りどころとする日本人そのもののものの見方、

 考え方に起因する日本人を、欧米人が理解しやすい著名な欧米人を引き合いに出して説明されている点において、

 我々日本人でさえも欧米人を理解する上において、様々な示唆に富んだ名著作物である。

 私はこの本を五千円札になる前に読んだ。表記の言葉は、ものを見るものの第一番の基本として私は捉えている。

                                    2015.05.07(木)

 

 

 

 

 松尾芭蕉(1644-1694)が元禄2(1689)年頃から説き始めたという俳諧の理念とされるもの。

  「不易流行(ふえきりゅうこう)」

   一般には、句の姿の問題として解され、表現や趣向に新規性がなく新古を超越した落ち着きのあるものが不易、

 その時々の風尚にしたがって斬新さを発揮したものが流行と説かれる。

  蕉風俳諧の理念の一つで、新しみを求めて変化していく流行性が実は俳諧の不易の本質であり、不易と流行とは

  根本において結合するべきであるとするもの。

                                    2015.02.05(木)

 

 

 

 松蔭(1830-1859)が残した数々の言葉には、日本再生のヒントが隠されている(2)

  「松蔭詩稿(しょういんしこう)」

   本詩稿「乙卯稿」(安政4年/1855)に収められた「彦介の元服を祝す」より。

 松蔭26歳の時のことば。

  今までは、親にすがり甘えていたが、小学生となった今日からは、自分のことは

 自分でし、友だちと仲良くしよう。

                                    2013.07.29(月)

 

 

 

 松蔭(1830-1859)が残した数々の言葉には、日本再生のヒントが隠されている。

  「松蔭詩稿(しょういんしこう)」

   本詩稿「丙辰秋冬稿」(安政3年/1854秋冬)の「松下村塾聯」の前半部分。松蔭、

 27歳の時のことば。全文は、「万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たる

 を得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん」(原文

 漢文)松蔭の学問態度を簡潔に評したこの句は、松蔭みずから筆をとり、久保五郎左衛門

 が彫って、聯(れん)-左右の柱に対句を分けてかける柱かけ にして松下村塾に掲げられ

 ていた。聯の材料は久保家に屋敷に生えていた孟宗竹である。但し、聯の方は「寧」が

 「安」になっているが、意味は変わらない。

                                    2013.07.23(火)

 

 

 

 大乗仏教の基本を漢訳した中国の僧・玄奘(600-664)とは、

  「一切皆空(いっさいかいくう)」

   禅定からさめた仏陀は、弟子シャーリプトラ(舎利弗)にむかい「仏陀の境地は仏陀

 以外のものには不可解であるから、便宜上“三条”の教えを説く」とされた。

 シャーリプトラは仏陀の意図を察し、その“一乗”をお説きになるように願ったとある。

 三条とは小乗であり、(1)自分だけの解脱(声聞)、(2)自分だけで満足(独覚)、

 (3)完全な仏陀も、自分たちには縁がないとあきらめているから、一乗すなはち大乗の

 「仏陀になる道は誰にでも開かれている」と説いたものだ。

 仏陀が説いた悟りとは小乗仏教であり紀元前5世紀、大乗仏教の成立は紀元1世紀!

                                    2012.08.21(火)

 

 

 

 日本仏教の流れを変えた近江出身の僧・最澄(767-822)とは、

  「一切皆成(いっさいかいじょう)」

   当地/近江・滋賀には、すぐれた人材をたくさんに輩出している。 13歳で出家をして

  19歳で都の官僧(正式の僧)になったが、すぐに比叡山に上り、12年間の修行生活

  に入った。 最澄の教えの特徴は、「すべての人間が成仏できる」と説く『一切皆成』に

  集約される。 当時の南都諸宗は、「成仏できるのは特定の条件を満たす人間だけで

  ある」とする、権力と結びついて堕落した状況にあり、厳しい修行と真の仏教を求めた。

  比叡山には、最澄に理解を示す仲間が集まるようになり、ついには力をあわせて一条

  止観院を建てた。これがのちの比叡山延暦寺なのである。

  なお鎌倉新仏教の指導者、法然、親鸞、道元、日蓮などは、みな比叡山で学んでいる。

                                    2012.08.19(日)

 

 

 

 仏陀が滞在した反骨精神旺盛な商業自由都市ヴァイシャーリーの在家信者ヴィマラキールティ(生没不明)とは、

  「この通り肉体はもろいものである。」

   中国玄奘も訪れたというヴィマラキールティの邸宅跡の話もあるが、実在の人物かと

  いう話もある。しかし、彼の「病人の外観」は、“仏陀の身”すなはち“心理の身”(法身)

 であることの人々への諭しや、知恵第一と称されたシャーリプトラへの『瞑想』とはこうする

 の諭しには、一言の返事もできなかったという。このことばは現代人の誰しもが読み抱いて

 もまだ、その意味に驚くあたり、人類の進歩に人類自身、何も学べていない現実に大きく

 ぶつかった。ここでも、己がないのは、海外では何も考えていない人間とみられ、世界に

 通用する日本人にはまだ、いたってはいない。

                                    2012.08.03(金)

 

 

 

 西欧哲学のルーツとなっている『人類の教師』ソククラテス(Sokrates)(B.C.470-399)とは、

  「最も尊重しなければならないのは生きることではなくて、善く生きることである。」

   私たちの日常生活において、知識や情報、報道の最新データにも、果たしてその意味を

  どれほどまでに理解し、分かっているのかと言えば、何も理解しておらず、自分の勝手な

  判断や、あいまいなままの覚え、はたまた誰かの入れ知恵に左右されたままの状態である

  ことが少なくない。 人間の歴史のはじまりから、かつて、私たち人類に警鐘を与えてくれて

  いるのが他ならぬ『無知の知』でおなじみ、ソクラテスである。

    私たちが最高のものを得るための「真知」への道を開いてくれたのにもかかわらず、この

  言葉を見逃している人々が、未だ少なくないのが、たいへん残念である。

                                    2012.06.29(金)

 

 

 

 シャープを救った世界最大EMS(電気機器受託製造サービス)会長 郭 台銘(テリー ゴウ)(1950- )とは、

  「ニッポンの、社員の頭はコンクリートだ!」

    いま、ニッポンの家電メーカー各社が窮地に陥っている。 そんな中、液晶技術で

  世界の最先端技術を持つシャープを救った企業として話題を集めているのが台湾企業の

  鴻海(ホンハイ)精密工業(通称フォックスコン)の「郭」董事長(会長の意味)だ。

  スマートフォンや液晶テレビなどの電子機器の生産を請け負うEMSの世界最大手で、

  売上高9兆6361億円、従業員数はなんと世界96万1000人。

    郭董事長は1950年生まれの台北外省人(国共内戦後、台湾に逃れてきた中国本土人)。

  23歳でプラスチック部品メーカー創業。 郭董事長によると台湾政府は、韓国と違って

  中小企業を支援しない。 そのため「脱・台湾」で90年代、IBMの筐体を手掛けて、

  「これだ!」と確信されたそうだ。 事業は急成長して、世界に稀なEMS事業を展開、

  取引先は、世界のアップル、ヒューレット・パッカード、デル、ソニーなど最強企業だ。

    韓国に勝つには日本と相性がいい台湾と手を握ることといい、相手の立場を念頭に

  気をそらさない軽妙なやり取りは、米国での飛び込み営業の実績が培われている。

    ・・・・・

    彼はメーカーに言ってる「私には既に用意ができれる。いつでも応じられますよ。」と。

  この話、私がメーカーに言ってるのと同じだった!世の中を動かせるのは販社なのに

                                    2012.06.03(日)

 

 

 

 スイスの精神科医・心理学者 カール・グスタフ・ユング(1875-1961)とは、

  「マイペース 本音で生きる」

    現代社会は、人がだんだん生きにくい世の中に変わりつつある。 我々は、何の

  ために生きているのか。 「ふと」ではなく、「ほんとう」に、真剣になって見直しが

  大切な気がする。 経済や社会は、原始の時代から『ひと』のための働きであったもの

  が、今では自分たち自身を拘束したり束縛したりして、やれ学歴や資格だ地位だ名誉だ

  と自尊心を高揚させたりして、ホントつまらない。

   悠久の時を隔てた大自然のぬくもりの中にこそ、私たちの求める本当の姿がある。

  自然の恵み、自然の恩恵、自然のやししさ・・・ 私たちを癒してくれるものは、

  ひとと自然と心でありたい。

                                    2012.05.28(月)

 

 

 

 日本人が知らない日本人初のノーベル医学賞候補者 山極勝三郎(1863-1930)とは、

  「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」

    1889年破傷風菌の純粋培養/北里柴三郎、1894年ペスト菌の発見/北里柴三郎、

  1897年赤痢菌の発見/志賀潔、1900年アドレナリンの結晶単離/高峰譲吉、1910年梅毒

  治療薬サルバルサンの発見/秦佐八郎、1910年オリザニン(ビタミンB1)の発見/鈴木

  梅太郎、1914年ワイル氏病スピロヘータの発見/稲田竜吉・井戸泰・・・ 北里をはじめ

  として、近代日本の医学界は、そのスタートから続々と世界的業績を生み出していった。

   ・・・・・

   1915年世界初の人工ガンの発見/山極勝三郎は、ニッポンよりも世界に名の知れた

  数少ない科学者であることを、日本人として大変残念に思っています。

  1926年、寄生虫説の人工ガンでノーベル医学賞を得たフィビガーは、タール発ガン説の

  山極勝三郎博士にこそ授与されるべきものであったが、当時は博士の研究や功績には、

  誰もが冷ややかであった。 故郷長野県には、博士の顕彰施設があるという。

 

   尚、彼の研究成果は3年半、当社シュンペーター理論/新結合は、約10年かかってる。

                                    2012.05.17(木)

  

 

 

 近江茶人 祐庵漬(幽庵漬)の創案者、北村祐庵(1648-1719)とは、

  「祐庵漬けを創案する。」

   近江堅田の豪農の生まれ。 千宗旦四天王の一人、藤村庸軒に茶を習い一派をなした。

  あらゆる味付けのベースといえる幽庵地は幽庵焼きを考案したといわれ、作庭にも長じ、

  大津市に居初氏庭園が現存する。

   アマダイ、マナカツオ、イナダ、サワラ、カマスなどの魚の切り身や鶏肉などを、醤油、

  酒、味醂を1対1対1であわせ、ユズの輪切りを加えてつくった漬けダレ「幽庵地」に

  数日間漬け込み、汁気を切った後に焼き上げたものを幽庵焼きという。別名、祐庵焼き、

  蒸して幽庵蒸し。柚子を混ぜることから柚子庵ともいう。

   中国に豚の『角煮』を創案した政治家「トンポーロー」も有名だ。

                                    2012.05.05(土)

 

 

 

 近江商人 伊藤忠・丸紅の創始者、伊藤忠兵衛(1842-1903)明治36年61歳

  「嘘をつかない。」

   私の町、滋賀県には、私が目標としたり、考え方や生き方を学ぶべく、身近なところに

  たうさんの近江商人屋敷があることは、私にとっては貴重な実践道場として大変ありがた

  いことです。 人が起業して、何か自分以外の人のために、社会に役立てる働きができる

  ことには、万丈の喜びがあります。 さまざまな人と人との関係やお客様、取引先様、そ

  のた目には見えない人間ドラマが数限りなくあり、そんな中を一歩抜きん出て世に出るに

  は、やはりそれなりの人としてのウツワがいるのではないでしょうか。

                                    2011.12.20(火)

 

 

 

 わが郷土、近江商人のルーツ五個荘にみる中江準五郎邸より、

  「実業を以って鮮満支に活躍せんとする青年は来たれ! 我が三中井へ

   明治38年(1905)に発足した三中井呉服店は、昭和9年(1934)株式会社三中井百貨店

  と改称した。 その運営をしていたのが中江藤治郎で、中江準五郎はその一族であり、当地

  に本部を置き、百貨店経営への突端をきった。 その時「実業を以って鮮満支に活躍せんと

  する青年は来れ、我が三中井へ」の合言葉のもと、戦前には朝鮮半島・中国大陸で20余の

  店舗を擁する大百貨店として隆盛を誇り、三越を抜いて日本一の売上を誇っていました。

  その本部がここ五個荘の町であり、京都を本店とする百貨店王となっていたのです。

   しかし、昭和20年の敗戦と共に衰退し、この三中井を経営した五個荘金堂に本部を残す

  中江準五郎邸がそのなごりをとどめています。

  当地を訪れた司馬遼太郎は、スケールの大きなわりに目立ちにくい豪華さがなく近隣住居に

  相たたずむ住居は、控え目なるさすが近江商人とたたえています。

  なお、近隣にあと3軒のこれまた見事な近江商人屋敷あり!   10月23日(日)訪問より

                                    2011.10.24(月)

 

 

 

 スコットランド出身のアメリカの鉄鋼王、アンドリュー・カーネギー(1835-1919)とは、

  「私の信ずるところでは、なにごとによりず、仕事を成功させる真の道は、精力を分散

   しないで、ひとつの仕事一本でいくことである。

   鉄鋼王カーネギーの魅力は、自分の仕事に真摯に向き合ったその一途さではなかろうか。

  彼に自伝にはそうした彼自身のひたむきな仕事への専心さが見事に溢れんばかりに読者の

  共感を得ることが不思議なくらい伝わってくるから偉大である。

   また彼がペンシルベニア鉄道時代に起こった南北戦争(1861-1865)には、あのリンカーン

  大統領にたびたび出会ってその人物の素晴らしをつぶさに感じ取ったことにも、その後の

  カーネギーの人生に大きく影響を与えたものと思われる。 労働争議にも組合員に対して

  こころある対応を果たしたのも、彼のそんな人間としての幅を感じさせる場面があった。

   1870年(35歳)ころ、「おおくの仕事に手を広げることをやめ、鉄鋼の生産1本に集中して

  その道の達人になろう」と考え始める。 誠、人間には尊敬と感化される人がいるものだ。

                                    2011.09.04(日)

 

 

  フランス革命が目覚めさせたジロンド派の指導者。 ロラン夫人(1754-1793)とは、

  「自由よ、汝の名において、なんと多くの罪が犯されたことか! 

   ロラン夫人は、パリの彫金師の娘としてルソーなど教養ある育ちを経て、工業視察官を

  していたロランと結婚し、上流ブルジョワ夫人として模範的主婦で家庭の中に一生を終え

  るはずだった。 彼女が35歳のときにフランス革命が勃発し、彼女の中に眠っていた力が

  目を覚ましたのであった。 夫が内務大臣になるや、大臣執務室に自分専用の机を置き、

  大臣名で出されるほとんどの文書も彼女が手掛けた。 夫が大臣になる前の1791年ころ、

  彼女が開いたサロンには、ロベスピエールやダントンなどの革命の騎手が常連のように押

  し掛けていた。 彼女は不思議な魅力の持ち主であり、彼女を見ただけではなんとも思わ

  ない人でも、ひとたび彼女と会話の機会を持てば、もうその魅力から逃れられないも力を

  持つ人だった。 そんな彼女でありながらも、時代の運命のよってジロンド派の崩壊で、

  処刑に及ぶ最後の有名なセリフがこれである。 革命は2500名もの命が消えた。

                                    2011.08.09(火)

 

 

  フランス革命を象徴するヒロイン。 マリー・アントワネット(1755-1793)とは、

  「パンが手に入らなければ、お菓子を食べればいいのに・・・ 

   いま、私はフランス革命を学習している。 歴史に教えられることはたくさんある。

  自由・平等・博愛・・・ 如何にして「フランス革命」は起こったのか。 また、どのような人々が

  登場して、どのような悩みを抱え、どのような問題点を解決し、また人々の連携は如何にして

  達成されたのか。 学校の教科書には、ルイ14世の財政担当者コルベールも出てこなければ、

  グルネもケネーもチュルゴも出て来ない。 コルベール主義からの脱却、革命の導火線といわ

  れるネッケルも出て来ない。 侍医ケネーがグルネの後、たった1枚の紙に「経済表」を書いて

  さも経済学者のような教え方には疑問がある。 初期革命を指導したミラボーやシェイエスなど

  ニッポンの戦国時代のような話題が尽きないし、日本人が最も学ばなければならない処だ。

  さてマリー・アントワネット、彼女には絶対君主制の王室の姿のほかあの時代何があったかだ。

  時代を読めないとか、本質を見抜けないとか、大切なのは今も先人の尊いその教える意味だ。

                                    2011.08.03(水)

 

 

  はじめ政治家、哲学者、小説家に 松山出身の俳人・歌人。 正岡 子規(1867-1902)とは、

  「ふる郷を かなたの空と ながむれば 窓にさし入る おぼろ月かな

   日本の中心「東京」でみっちり勉強しようと、松山からの船旅で読んだ短歌。

  四国松山は、歌人の宝庫だ。弟子といわれる高浜虚子、河東碧梧桐、桁違いで賞賛されるのが

  日本海海戦の秋山真之「敵艦みゆ 皇国の勝敗この一戦にあり。 天気晴朗なれど波高し」。

  また、夏目漱石との出会いや与謝蕪村の発掘、「野球」の命名、俳句雑誌「ホトトギス」発刊など、

  あの若さでの活躍には驚嘆する。 しかも、明治29年2月から没する35年9月19日まで病臥

  したきりの苦痛を背負っている。かの坪内逍遥に英語を習ったが学習には苦しんだとある。

  柿が好物で、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は有名。

   明治25年、小説「月の都」を幸田露伴にみせ不評だったので、詩人になる決心をした。

  余談だが、子規の妹の律は、子規がけんかに負けて帰ってくると相手に石をなけつけるという

  くらい気の強い人だったとか。

                                    2011.07.25(月)

 

 

  大阪出身の数学者。 フランス留学の岡 潔氏(1901-1978)とは、

  「植物でも茎、枝、葉が一様に育つのではない。 今の教育は、思いやりの心を抜いている

   のではないか。

   わたしが彼の書に触れたのは、留学帰国の一声が「蕉風」の俳諧を勉強しようとぶったこと。

  この意味が何であるか。 このワケが何であるか。 留学しての帰国の第一声が何を言わんと

  しているのか。 この意味が、なんとなく今のわたしに分かりかけていると思えて、彼の書を

  読んでみようとしたのである。 また、彼の留学の行き先は文部省だったかがドイツ留学と

  していたのを、彼自身がフランスに変えたことも興味ある内容であった。

   数学の先進国といえば当時、文句なくドイツであったろうに、なぜフランスかにも

  興味ある内容だった。

   数学者が数学の世界に閉じこもらずに、社会との接点を保っていることこそが数学者たら

  占めるという意味も内容もこころ充分に伝わった。 わたしたちの今の世界にもそれが言える。

                                    2011.07.22(金)

 

 

  ドイツの哲学者。ショーペンハウエル(1788-1860)とは、

  「バッカスの酒神の杖を持つものが多いが、バッカスの風貌を備えているものは まことに

  少ない。

   「杖」は手段、「風貌」は文化のことで、ギリシャまで戻れといっているという。

  ギリシャ文化の系統には二つあるという。 一つは力の強いものがよいとする意志中心の考え

  方だといい、もう一つが知性の自主性だが、まだこれはとても日本に入ってきているとは言い

  がたい。 このことは、文化の基調になっている情操がわかっていないということにほかなら

  ないわけで、西欧人のまだ奥にしまってあるものと考えたほうがいい。

   知性に、他のものの制約を受けないで完全に自由であるという自主性を考えたのはギリシャ

  だけだった。 インドもシナにも知性の自由はない。これらの国で科学が興隆しなかった理由

  がここにある。

   ショーペンハウエルは、ギリシャだけでなく東洋思想にも道を求めたが果たせずも、理想とは

  どんなものかを知っていたという。

                                    2011.07.13(水)

 

 

 

 

セールスポイント

 詩にはこころがあり、その心が読めなくてはこころを知らず人はひとになれないという。

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