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IT-現代感覚の新店:当社独特・日本ハム発送/「クール便」 おいしさへの独走!

 

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 当社独特・日本ハム発送/「クール便」(製造品質)

  モリ・ダイニング・サプライ/有限会社モリロ

 520-3403滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野902番地

 TEL.0748-88-4910 FAX.0748-88-5138

 編集人:モモタロー

 発 行:Vol.1

 平成19年1月7日(日)

 

※豚魚とは、当社看板のハムである豚、カニである魚、「信、豚魚に及ぶ」(易経)からとった。

 

  世界的な潮流の中で

  これからの世界の考え方を探ろう。

 

■歴史検証 その9)Vol.20 2007.08.30(木)

  日本の夜明けは明治維新が定説だ。ただ、ペリー来航の四隻の船にて一変したことから

 始まる日本史ではなく、老中水野忠邦退陣の萌芽の芽を学ぶことこそに意味がある。

 1845年、後任に25歳の阿部正弘がなったことも異例だが雄藩への諮問も異例だった

 当時の日本の国体は、当社・日本初のメーカー発送/クール便に相通じるものがある。

  徳川幕府は島原の乱(1637)以降、天保飢饉の大塩平八郎の乱(1837)まで200年に及び

 正に強権的武力をもって支配をしてきた。日本の萌芽は、三河・田原藩の家老渡辺崋山

 私は見ている。渡辺崋山は、武士でありながら谷文晁に弟子入りし絵を描くひとであった。

  さてこの渡辺崋山、当時巣鴨の別邸に藩主をはじめ、医師・儒者・幕臣・旗本・農政学者など

 との閑談の場を持っていたことである。彼の篤学はこれらにとどまらず、当時一流の蘭学者

 高野長英や江川太郎左衛門など分け隔てなく誰とでも交わりを持つ卓越した求心力のある

 人物であったことである。彼の苦悶は、いち早く、なぜ日本は西洋よりも国力が弱く、遅れて

 いるのかという真摯な自問であり、如何にすればその問題が解決ができ、領民が幸せになれ

 るかという日本への問い掛けであった。その当時の日本への警世文が、渡辺崋山(1793-18

 41)の「慎機論」であり、刎頚の友・高野長英(1804-1850)の「夢物語」であったワケだ。

  新しい時代、これでよいのかという当時の時代背景に照らして考え抜いた画家・渡辺崋山-

 『画家は人生もキャンパスにする』、我々日本人はあまりに見落としすぎてはいないか。

  渡辺崋山の自由な発想と徹底した問題追求への先覚者としての萌芽は、一流画家として

 西洋遠近法にも触れる自由で柔軟な彼の発想法が、日本を導く歴史のカギとなったと見る。

  当社独特・メーカー発送は、いつも胎動の足音は遅れてやってくる歴史の繰り返しではなく、

 当地・近江商人の次代を読む独特土壌、底知れぬ実直なものの見方がかもす新発想の食品

 流通/旧体質から脱却したメーカー発送が、新鮮・清潔へ飛躍・起爆剤となるを願って止まない。

 

 

■歴史検証 その8)Vol.19 2007.08.13(月)

  石田三成は長浜の寺の小僧から羽柴秀吉に見出された文治派武将。秀吉は、柴田勝家

 丹羽長秀よりそれぞれ一字をもらって“羽柴”秀吉と改め、はじめての城持ち大名となっては、

 今浜の地を信長一字を取って“長浜”に変えるなど、新進気鋭の信長有力武将に踊り出た。

  その長浜の地での鷹狩りの途中、喉が乾いて茶を所望した寺の小僧が石田三成である。

 最初の一杯はぬるめの茶、二杯目は半分で少し熱い、三杯目はさらに少量で熱い。

 「三杯の湯」で今に伝えるJR長浜駅前の有名な石田三成と秀吉の出会い。秀吉がすっかり

 感心し、僧籍に終わらせるには惜しいとお寺に頼み込んでもらい受けた三成であった。

  その石田三成がはじめての城持ち大名となった当地、近江水口岡山城四万石。これまた

 有名な戦国武将島左近を、領主と同額二万石で雇った三成。島左近は、武勇に優れた著名

 な人物、伊賀上野の領主筒井氏の所業に失望し、家老職から当時浪人の身にあった。

  のち、石田三成が彦根佐和山城に移った時、佐和山城の改修をし「三成に過ぎたるものが

 2つある。島の左近と佐和山の城」と謳われた。

  さて、この英明才覚の文治派石田三成が、武断派といわれる加藤清正や福島正則、黒田

 長政らとどうして対立したかこそ、人の有り方を見事に教えてくれる教科書はない。

 

 

■歴史検証 その7)Vol.18 2007.07.28(土)

  東京・一極集中!東京は、東京都だけを取ってみても世界最強の国家たりえる。

 東京はいま輝かしい日本の富の集中をなし、経済社会、行政政策の権力の中央をなして

 いる。ものを生産しないのに言葉と力だけはすごくある、これはほんとうなのでしょうか。

  もともと関東は湿地帯でこれという産物もなく武士も育たない。豊臣秀吉はそこに目をつけ、

 三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の強大な五州の、山あり谷あり平野ありの産物豊かで甲州武士

 や三河武士を支配する徳川家康を恐れ、結果的には大誤算といわれる関東移封を実施した。

  天正18年(1590)小田原落城8日後の7月13日、20万の大軍を残したまま関東移封を下命、

 もともとは秀長案の奥州3か国(津軽・出羽・陸奥)移封案であったがいかにも荒療治であり、

 北条氏旧領・関東6か国(武蔵・伊豆・相模・上総・下総・上野)となり、家康が、江戸に入った

 のは同年陰暦8月1日、八朔の日(豊作を願う行事のおめでたい日)という。

  秀吉から見れば関東は、僻地であり不毛不作の地に家康をおいやった地ということだが、

 やがて天下を取った家康が後戻りもせず江戸幕府を築き、明治、東の京/東京となった。

  ただ、慶長10年(1605)家康は、隠居城として駿府城に居しているのが気にかかる。

 慶長四年(1868)江戸開府と共に所領は徳川氏が駿府城主となり、静岡と改称している。

 

 

■歴史検証 その6)Vol.17 2007.07.11(水)

  人間が人間であることの本質を極め尽くした人が18世紀の哲学者イマヌエル・カント

 (1724-1804)である。彼の一生は、自分の書斎と、学校ですごされたといっても、いい

 すぎではありません。毎日正確な時間通りにその間をゆききしたというから適いません。

 旅行などは彼の生活をかき乱すものとして避けそれでいて諸外国の様子にも通じている。

  そういうきびしいきまりのある生活のなかから、哲学の貯水池といわれる彼の偉大な

 学問が打ち立てられているのです。私たち現代人には、彼くらいに考え尽くす余地があ

 りません。昔の人ほどに心打ち込める現代社会ではなくなって来ているからです。

  幸か不幸か、さまざまないろんな同じ事が世界に及んできています。孔子ほどに老子

 ほどに人についての考えが及ばない時間的な欠落や精神的な喧騒感が悠久の歴史人

 ほどに豊かで穏やかではないことだけは確かです。この先進めば進むほどに人は人と

 しての領域に窮すると見るのは私だけでしょうか。ここに新しい人としての智恵がない限

 り、海や星や青空をひとが取り戻す空間がない限り、カントのように『エヌ・イスト・グート

 (これでよい)』という最期にはならないだろう。

 

 

■歴史検証 その5)Vol.16 2007.07.03(火)

  人とは何かを考えつづけ、あるべき人の姿を指向する。それには人の歴史に学ぶことが

 何より大切だ。国づくりとは人づくりであることから、社会基盤の確立のために大きな国家

 目標があった明治の歴史には学ぶものがある。

  戦前の歴史の教科書にも載せられた毛利元就(1497-1571)の「三本の矢」は有名な伝説

 だが、彼にはまた「百万一心」(一日一力一心と読む?)もあり今はすっかり忘れられている。

 いま、唯一それを説いて聴かせてくれているのが「がばいばあちゃん」の島田洋七氏かも。

  郷里−蒲生野の自然を描き続けた画家、野口謙蔵(1901-1944)は、旧彦根中から東京

 美術学校の黒田清輝、和田英作に学んだ明治の人で、平成三年復元の記念館は、昭和

 八年から昭和19年に43歳の若さで亡くなるまで次々と名作を世に送り出した最も充実した

 11年間のアトリエを改修されたもので、詩も描いた明治人の躍動感がここに発見される。

  戦後の混乱期の中、姿を消していた野口謙蔵は近年、日本の美術界で新しく評価され

 いまの私たちが見失っているものが素直なかたちで感動される。「うつくしい」と。

 ※野口謙蔵記念館(0748-55-3836)は、東近江市綺田(かばた)町442番地にあります。

 野口謙蔵遺作展/八日市文化芸術会館:7/5(木)〜16(月)※月曜休館TEL0748-23-6862

 

 

■歴史検証 その4)Vol.15 2007.06.21(木)

  本は、5年や10年で古くなるようなものであってはならない。そんなものに相手になって

 いる時間はない。百年や弐百年たっても新鮮な活力を与えてくれるものであるものが本物

 である。最近、マクドナルドの藤田田(den)の本を読んだ。彼はもう亡くなっていないけれど、

 書物は残されている。彼の業績は、日本にハンバーガーを生み外食産業トップにしたこと。

  東大法学部出身で在学中に貿易会社藤田商店を設立。しかし、日本マクドナルドの設立

 は彼が45歳の時で、会社設立にあっては、私と東大出の彼とはまったく損傷がない。

 ただ、彼のその後の躍進はめざましいの限りだが、アメリカの成功者のシステム導入では

 彼でなくとも誰かがやるだろう。「無」から「有」をこの世に生み出す力こそ尊称に値する。

 小社は将来を見据え、種はまだ小さいが食品鮮度への革新/メーカー発送を誕生・育成中!

  ただ、彼の目に映る現状分析には、時代を超えたものをみる。それは日本人の行動規範。

 例えば、アメリカ人にはキリスト教があり、週に1度は教会に行き、懺悔して、神父や牧師の

 説教を聞き、心を洗い自分を見つめる時間を持っているということだという。

  クルスチャンの母親が名づけた田は、口に十字架を加えおとなしい子そのままだったか。

 日本の自動車やテレビは素晴らしいというが、「あの日本人は素晴らしい」という外国人に

 出会ったことは、いまだ一度もないと彼はいう。今の日本人には、正に何もない。

  戦前には日本人の心の拠り所として行動規範として宗教ではないが教育勅語があったと

 彼はいう。行動規範のない日本人は、世界のなかで勝手にやっている。この道徳心もない

 空虚な日本社会の創出は、文武を重んじた歴史の足元に及ばない。ひとを思いやる心さえ

 失いかけている現実を見ていないか?やっぱり「お中元」など、古来からある日本人本来の

 心、これをも軽んじる社会ではダメだということにつながっている。

 

 

■歴史検証 その3)Vol.14 2007.06.12(火)

  1156年、保元の乱は、平清盛(42)や源義朝(36)は後白河天皇側につき、清盛の叔父

 忠正とその4人の子長盛、忠綱、正綱、道正、そして義朝の父為義とその4人の子(義朝

 の弟)頼賢、頼仲、為朝、為仲らは崇徳上皇側につき源平一族が乱れての乱戦となった。

  清盛・義朝の勝利に終わったが、清盛はすぐさま叔父忠正と4人の子を討ち取って、義朝

 に迫った。『清盛は涙をふるって叔父とイトコあわせて五人を処刑したのだから、そこもとも

 同じように勇気を持って成敗されるがよい。天皇も満足なされるであろう』と。

  直情で一本気な義朝は、何も言わずに御所を退出したが、2〜3日後、義朝は、父為義

 と弟3人を斬り、弓で名をはせた八郎為朝は伊豆大島に流罪としたと告げてきた。

  清盛には都ですでに強力な地盤ができつつあり、論功行賞、翌年の大内裏の造営にも源平

 に大きな差がうまれ、義朝の不満が爆発したのは当然である。

  1159年、平治の乱は、後白河上皇と二条天皇との国争いで上皇側藤原信西と天皇側藤原

 信頼の勢力争いであった。義朝は、ここで競争相手が清盛とはっきりと知って藤原信頼に

 与(くみ)し、清盛の熊野詣の隙をつき、信西を斬り後白河上皇を捉えたが、なんと二条天皇が

 御所から六波羅に戻った清盛館に潜行した。信頼・義朝を嫌ったのだ。軟禁の後白河上皇が

 ひそかに仁和寺に逃れ、信頼・義朝は完全に賊臣となり、清盛に敗れることになる。

 保元の乱の後処理で、なぜ義朝が清盛の奸計を拒否しなかったのかが、歴史のなぞだ。

 清盛のオジとイトコ、義朝の父と弟では、その重みが違うと、断固拒否すべきだった。

 義朝の子三男・源頼朝は、保元の乱で父義朝が祖父と伯父を殺し、平治の乱で清盛に父義朝

 を殺され、20年後に伊豆で挙兵することになるが、彼もまた弟である常磐御前の子義経を

 手に掛けることになったが、妙な源氏三代の最期となって鎌倉幕府は執権北条家に移った。 

 清盛はなぜ、平治の乱の後処理で清盛の義母池禅尼が救った源氏の嫡流源頼朝を滅ぼさ

 なかったか史家は問う。

 

 

■歴史検証 その2)Vol.13 2007.06.06(水)

  昭和15年秋に刊行された『世界最終戦論』。1年に80版を重ねた当時の大ベストセラーだ。

 著者の石原莞爾は昭和6年関東軍参謀として満州事変を画策成功させ大変な石原ブーム

 を作り上げた人物である。昭和12年、日中戦争勃発に際してはその不拡大を唱え、以後

 陸軍主流から退けられ、昭和16年予備役編入となり、結局、戦犯からははずされた。

  さてその主薯とは日蓮の予言に発し人類史上空前絶後の決勝戦の組み合わせが天皇対

 アメリカ大統領。時は昭和45年頃、使用兵器は世界を無着陸で一周する飛行機から投下

 される核爆弾、というから当時の時代背景から類推すと熱狂的信奉者が出て当然かも。

  彼の戦争史観は独創的で、その魅力の源泉は「陸軍大学創設以来の頭脳」と称された軍

 事学の教養と日蓮への宗教的情熱の渾然一体となったところにありそうなのである。

 明治22年(1889)〜昭和24年(1949)。山形生まれ。

 

 

■歴史検証 その1)Vol.12 2007.06.05(火)

  大きな目玉、太い眉、とんがり頭のスキンヘッド。桐生悠々は反共反ファッショだが、

 反軍に終始したジャーナリストであった。明治6年(1873)、石川生まれ。

 信濃毎日退社原因となった昭和8年8月11日付の社説は『関東大演習を嗤(わら)う』

  さてその内容とは、「…将来、若し敵機を帝都に迎え撃つようなことがあったら、木造

 の家屋の多い東京市は一挙に焼土になり、逃げ惑う市民は目にみる如く…それは我軍の

 敗北そのものである。この危険以前に於いて、これを射落するか、撃退しなければなら

 ない」 という平明な文句であったが当局の怒りは収まらなかったのだ。

  彼は東大出で東京市のことが詳しい。ましてや江戸大火で有名な歴史あるところ、新

 愛知など地方紙に移ってからも健筆を振るったというが、日本の歴史はいつも東京では

 なく地方から情報発信されているとみるのは私だけでしょうか。

 惜しいことに昭和16年68歳で亡くなっている。彼なら戦後の歴史をどう描いたか。

 

 

■“人生は芸術である”に動かされた人生Vol.11 2007.05.30(水)

  中学生は誰しも多感な子供のころで、ただそれだけで終わってしまいがちである。

 中学時代、英語の教科書の中にこの“人生は芸術である”という語句に感銘を受け、

 「同じ芸術なら、うんと上手に作らねばならぬ」と観じて、独特の計画的人生を

 スタートさせた方がおられる。

 わが国生薬学界および植物化学界の最高峰、朝比奈泰彦東大名誉教授であった。

  『毎日、明日やることを決めてから眠る』というのが彼の人生のモットーとなった。

 本人のいう計画第1期は、キツネノボタンの有毒成分アネモニンの構造研究で、一躍

 世界の注目を浴びた。第2期は、アルカロイドの研究で薬学界に貢献。

  第3期が、地衣類の研究で植物形態学、有機化学、分類学3つの分野の総合研究で、

 未踏の領域を拓いたわが国生薬学の生みの親である。地衣類とは、日本には約1200種

 ある菌類と藻類とが親密な共生関係を作り一個の生命体となす特殊な植物群である。

  ちなみに東大は首席で合格、卒業も首席だったとかで、人世も首席というワケか。

 

 

■江崎玲於奈博士の警告VOL.10 2007.05.27(日)

  頭脳流出が騒がれたアメリカIBMワトソン研究所主任研究員だったノーベル賞受賞

 江崎博士ほど日本教育の問題点を指摘された方はおられないのではないだろうか。

 それは渡米されて彼の決定的な印象に基づく言葉であるからより認識の違いを証明する。

 「日本で教育を受け人格形成され、日本の風土で育った私は国際性のなさを痛感し、英語

 にも苦労した」という。

  日本の教育は知識の詰め込み主義で、本人の良いところを伸ばすやり方をしない。個人

 を生かす社会になっていない。個人の重要性を認める社会にしないといけない。

 将来の社会がどうなるかを考え、その社会に見合う、その社会が必要とする人材を育てる

 のが教育ではないのか。

  近代科学や技術成果だけを学び、科学思想に基づく発展の過程や論理そこから生まれた

 自然科学などは気にもせずまた他国の学問として取り入れる。従って日本の社会で科学思

 想や論理が根を張るにはまだ時間がかかる。

  日本は単一民族で複雑なことを論理的に考える訓練ができていない。 

 日本人全体の自我の目覚めというか、インディビデュアリティが確立していないことが、

 真の意味でのダイアローグを成立させ得ない大きな原因になっていると考える。

 

 

■近江商人の活躍VOL.9 2007.05.24(木)

  昭和19年春、東京都は糞尿処理に頭をかかえていた。当時の処理方法とは、トラック

 に積み河岸へ運び、船に積み替え東京湾の外へ捨てていた。戦争激化で、油やガソリン

 が制約され、トラックや船の輸送制限、人出も激減していたからであった。

  東京都長官大達茂雄は、電車で運んでくれないか、と西武電鉄を経営する堤康次郎の

 ところに頼みにきた。なにしろ、モノがモノだけにどこの電鉄経営者も皆ことわっていた。

 ところが堤は即座に引き受け、糞尿専用タンク車150輌をつくり、昭和19年11月30日から

 西武沿線の農村地帯へ輸送を始めたのである。

  都民は大いに助かり、乗降客はその芳香に大いに迷惑し、“西武オワイ電鉄”なる異名

 をいただく始末。しかし、堤は平気だった。「自分が引き受けねば、誰かが辛い思いをする

 のだ」と割り切っていたからだった。この輸送は昭和28年3月30日までつづけられた。

 

 

■趨勢Vol.8 2007.05.18(金)

  世紀の合併といわれたダイムラークライスラーがまた分離されるそうだ。

 このことはカルロス・ゴーンの書物で既に暗示されていた内容でさしたる驚きはない。

 しかし本来スケールメリットという強力になるはずの合併がなぜうまく働かなかったか

 の原因までは不明である。

  世の中には絶対といわれる勝者の論理が通用しないことがままある。

 日本の研究者は、開発商品をまずアメリカで試す。当社レスメルキンが正にそう。

 日本が世界に冠たる国になり得ないというのはこういう図式があるからだ。これは国家

 のどんなところに違いがあるのであろうかといえば偏に国民である。国民が何を選び、

 何を買っているかはその国の姿をあらわしている。アメリカ人の選択眼の質の高さがも

 のの成否を左右している。これは日本人にはないものの評価をなす働きを持つ才能だ。

  例えば当社取り組みのメーカー発送。日本人は“食材は店舗”の壁から抜け切れない。

 新しい風、新しい価値、より新しい食品購入。当社・誕生/「期間購入」なら、安くて新しい

 一流食材が割引無料配送のこの時がチャンス!インターネットでの革新的な提案だ。

 この新登場チャンスにお客は、自分で判断が出来ない!お買い物は、確実に新しい『製造

 品質』/メーカー発送になる。21世紀、日本の新しい食品購入の王道だと確信している。

  もう一つ、アメリカのシステム制度の優秀さも手伝っているのかもしれない。

 レスメルキンの抗菌消臭機能が果たして日本の公的機関など許可や認可を下している

 だろうか。アメリカでは、nasaアメリカ航空宇宙食の完全滅菌に採用!航空宇宙局ほか

 国連、農務省、環境省など許認可の発表がある。これ自体、日本の遅れが指摘される。

  HACCPが最も進んでいるのはアメリカ。HACCPは、1960年代に米国で宇宙食の安全

 性を確保する為に開発された食品衛生管理の手法。日本では、1994年頃から導入がはじ

 まり、1996年のO-157による事故多発が導入を加速させ、日本中の食品工場を席巻させた

 経緯がある。今やHACCP対応は食品業界全体の指標とまで言われている。私はこの

 1994年頃からの日本の導入企業がエライと思っている。

 

 

■日本まんなか文化フォーラムVol.7 2007.3/6(火)

  日本のまんなか四県(福井・岐阜・滋賀・三重)で日本まんなか共和国をつくっている。

 去る3日(土)、美濃市にてフォーラムがあり参加した。美濃市は金森長近公の城下町で、

 うだつと美濃和紙を今に伝える日本の古き良き伝統の息づく町である。

  作家の童門冬二氏の戦国時代のまんなか四県「金森長近公の視線を通して」の講演に

 もまちづくり産業振興の萌芽を教えて下さった。

  明治の改革は本州西の山口と九州最南の鹿児島だった。先ごろ中国にはじめて日本人

 の銅像が立った鳥取大学の故遠山教授。日本は古来、地方からシーズが生まれている。

 

 

■アメリカのビジネスVol.6 ’07 1/28(日)

  80年代は、まだ外国人の数も少なかった。でも、90年代に入って珍しくもなくなった。

 ビジネスの世界に垣根がなくなりかけているからです。

  私たちの実体はそんな世界観には程遠い生活ですが、ビジネスの世界はアメリカです。

 市場での競争が極度に激しいところです。ベンチマーキングが企業の生命を握っている

 とさえいわれます。米国の取引先は、何よりも品質と価格、納期を重視し且つ、取引に

 関するルールがきちんと守られていること、その根幹が“市場競争”なのです。

  コストの重要性をしっかりと捉えることができるアフォーダビリティや顧客を大切に

 することの浸透しているところといいますから、お客様へ学ばなければならないところ

 が随分とあります。外国人にとって日本のスーパーマーケットは、カルチャーショックを

 受けない人はいません。兎に角、物価高なのですから、これは改める必要があります。

  徹底して自社のお客様にはいいものを売る。1ついいものに信頼されると2つ目があり

 3つ目につながる。ネット店舗はお客様を平等に扱う。コスト意識で全国均一は当然だ。

 わかっているとわかっていないとでは、生き方に随分と落差があるということです。

  ※ベンチマーキングとは、「ベストに学べ」の意味。

  ※アフォーダビリティとは、ユーザーが購入できる手頃な価格志向での販売姿勢。

 

 

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■新商品/レスメルキンの登場Vol.5 ’07 1/22(水)

  昨秋、新製品「レスメルキン」が当社紹介以降、本格的に日本に登場した。

 『ついに誕生!置くだけで、細菌を除菌しながら、悪臭を分解しながら除去。』

 nasaアメリカ航空宇宙食の完全滅菌に採用され、FDA(米国食品医療品省)ほか、

 米国有力諸機関で採用もしくは許可となっている優れた新製品・新商品である。

  ところがこの商品は日本人が開発し、日本人が育てた新商品なのであるが、先行して

 おるのはアメリカである。日本の国家的損失は、日本と日本人の意識が変わらないこと

 には、全てのこうした産業界の構図は変えようがない。

 

  私たちの日常生活も、極めて型にはまった生活習慣、日常規範の中に我が身を置いて

 いながら、まず、その自分の姿にさえ気付いていないところがある。

  決まったお店で物を買い、決まった物しか手にしない。当たり前の構図である。

  アメリカ人はごく自然な形で容易に自己表現をする、フランス人は知性を重んじる、

 日本人には武士道がある。いえ、もうすかっり日本人の根幹から抜け落ちて今はない。

  新しい自分・成長ある自分が、頭だけ借り物の自分では、より進んだ考え方に舵を取る

 自分が非常に少ない。これでは進化発展しないのは当たり前だ。選ぶ眼識は持ちたい。

 

 

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■イギリス人ラフカディオ・ハーン(帰化名/小泉八雲)の物の見方Vol.4 1/16(火)

  明治の日本は、日本中が文明開化の波に押し流されているときでした。

 多くの欧米人が日本の文明開化の手助けにやって来て、ハーンだけは、違ってました。

 ハーンは西洋にない日本、機械文明や科学文明に毒されていない日本を求め、英語教師

 としてやって来たのです。だから東京ではなく、ずっとひなびた出雲の松江だった。

 ハーンが松江にやってきたのは1890年(明治23年)。当時はヘルンという呼び方だった。

  翌年41歳で、松江藩の名門・禄高五百石の小泉家であった節子23歳と結婚します。

 終生日本語が不得手であったハーンに、この節子夫人が物語ったのが実はハーンの作品

 になったのだそうです。『耳なし芳一』、『幽霊滝のお勝さん』などがそうです。

  さて、ハーンの夫人から聞く物語の、ハーンの受け止め方がここでの本論。

 彼は最初に話の筋を聞き、面白いとなると書き留めます。それから委しく話せ、幾度も

 話せとなり、仕舞いには本を見て話します。

  するとハーンは、本は見てはいけない。あなたの話、あなたの言葉、あなたの考えで

 語って欲しいといわれたそうです。作家・小泉八雲の作品はこうしてできあがった。

 明治37年54歳で亡くなるのですが、昭和7年64歳で亡くなった夫人とに三男一女あった。

 

 

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■家康のひとに左右されない“自分の目”Vol.3 1/15(月)

  昔、徳川家のある若い侍大将が合戦に出陣し、さしたる手がらも立てられなかった。

 ところが家来の中に大手がらを立て皆が賞賛しきりの折、これを聞いた家康はその家来を

 呼び出し問い詰めた。『自分が手がらを立てる前に、主人によい敵にめぐり合うようにする

 のが任務でないか』というものであった。

  封建的な従属関係や話の内容の正否は別として、家康が“評判”というものに流される

 ることなく、自分独自の判断をしていることに注目しよう。

  人々が誉めれば、つい、一緒になって誉めてしまう。しかし、それは人の目で見たもので

 あり、自分の目で見たのではない。日本人が独り立ちするためには、これからは自分の目

 でものをみられる自分を育てよう。

 

 

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■日米ビジネスマンの考え方の違いを知る。Vol.2 1/11(木)

  日本の海外渡航自由化は1964年、京都の新聞社から名古屋のテレビ局に電通の紹介

 で移り、当時若手新進の部長であった伯父が、香港に行かれて御土産をもらって久しい。

  ここでは、大阪出身のアメリカで活躍されている馬場さんにお話をお伺いしましょう。

 彼は私より七つ年下でアメリカで楽器会社を経営しています。昔は地元の食器メーカー

 にいて、欧米や中東諸国に洋食器の販売を経験、うち2年間アメリカの食器問屋にいた

 といいます。初めての海外生活で目からウロコが落ちたといいます。まず、自分が如何

 に視野が狭いかということを痛感したとのことです。

 

 

 “人の目”を重視する日本、“自分の目”を重視するアメリカ。

   さて、そんな馬場さんが20年も立って大好きだった音楽で起業されました。

 これまでとは全く違った環境のため、業界のことを知るのに時間がかかりました。

  そこである製品販売での日米ビジネスマンの考え方が正反対であることに気付かれま

 した。日本では、まず誰が使っているか、誰が推薦しているのか、どこのメーカーかとな

 り、製品そのものの評価は、実は後なのです。アメリカでは、本人が試してみて「いい」と

 なれば、商談が成立し、売れ始めるのもずっと早いといいます。

  これは大変大きな違いです。アメリカから世界を相手にビジネスをやっていると、この

 日本の異質さをいつも思い知らされるといいます。ほかのアジアの国の商習慣やマインド

 は、日本より欧米に近く日本の異質性が浮かび上がります。

  日本の海外在留者はアジアでも極端に少なく90万人、韓国は600万、中国3500万人!

 日本にいると世界の常識/グローバル・スタンダードと大きく異なるということに、気付か

 ず、当たり前と思ってしまうことです。

 

 

  変化の兆しは経済だけではない。

  知人に先ごろ日弁連の副会長をされた方がおります。副会長といいますから、NO.2

 かと思いましたところ、そうではなく全国各ブロックから選出されて13名いるとのこと。

  彼の話では、今は日本だけでなく世界的な法曹会の交流があり、日本だけという枠組み

 に曲がり角にある現実がここにもあるとのお話を伺った次第です。

  近々、黒マグロの捕獲規制が世界規模であり、圧倒的輸入国日本で大手水産会社の合併

 ニュースがあったばかりです。経済だけでなく、科学文化にも及び呼び寄せる世界潮流の

 トレンドは、これからますます変質化の兆しがあり、大手企業受難の時代ともいわれます。

  そこにこれまでと違った隙間が生じ、変化にいち早く対応できる零細企業や個人企業の

 大きなチャンスともいわれています。

 ※ご意見ご感想のある方は、当社までお寄せ下さい。

 

 

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■なるか中国の発展

  中国は古来大国で中原の覇者・始皇帝が国を統一、近隣日本に2000年の影響を与えた。

 中国は四大文明の発祥地でもあり、人類のこれはというものは全て発明開発されていた。

  ところが世界の三大発明、火薬・羅針盤・(活版)印刷術は、ヨーロッパ人となっておる。

 兵法書で有名な中国の「孫子」は、中世マキャベリの著わした「君主論」に対比されるが、実

 に1000年ものむかしの書物である。中国では、全てのものが一部の人の拠り所であった。 

  江戸幕末期、鎖国状態の日本の眠りを覚まさせたのは、1853年ぺりーら四隻の黒船だ。

 ぺりーが幕府役人に渡したのは大統領の手紙だけではない。箱の中を明けたその中には、

 2本の“白旗”と一通の手紙が副えられていた。

  日本がはじめて知った「万国公法」といわれるものの最初の出会いであり、日本の近代史

 はこれまでとは全く文化の違う西欧に目を向け、国家の仕組みや社会のありかたを学ぶ。

  西欧社会には、一般民衆のより高い文化への創造がみなぎっており原動力が違います。

 中国は日本より遅れること150年、国家指導者ケ小平が日本等の訪問により、何が近代化で 

 あるかを知り経済社会の国家的遅れを痛感し、1979年以降改革開放の口火を切った。

  アジアの大国中国と日本のこの史実の違いから学ぶものは、優れた発明や社会システム

 が、民衆にくまなく広がる市民社会、民生展開の国家観によるものではないかと考えている。

 ※米国東インド艦隊司令長官ペリーが率いる旗艦・蒸気船サスケハナ号2450t、ミッシシッ

  ピ号1692t、帆船プリマス号989t、サラトガ号882tの艦隊4隻が、1853年夏浦賀沖にくる。

  

 

 

■日本独自・当社「クール便」/欧米社会を超える民生展開の切り札

  より良い生活、より高遠で水準の高い文化への移行は誰しもが目標とするものです。

 明治時代の廃藩置県や学校創設、鉄道導入がそうであったように、新しい社会システムの

 導入には、誰しも戸惑いや躊躇迷いがあるものですが、新政府は国家権力で断行しました。

  当社「クール便」は、店舗(スーパー)に買いに行くことなくメーカー(製造元)発送する。

 当社新鮮「クール便」が業界トップの人気商品で、絶対お得、断然有利、そんな質実的な内

 容であっても、頭の切り替えがないことには全く前方が見えないことは確かです。

  いま、私たちの新しい生活様式の選択は、国家が舵取りをしているものではなく、私たち

 自身が創造し生み出して行くものであり、私たち自身の生活軌範が問われるワケです。

  見誤ってはいけないのは近代日本の発展の根幹は、明治国家指導者の先見性に負う

 恩恵のもとにある国民であり、民衆成熟度が西欧に近いものとは異質であるということです。

 ですからヨーロッパでは、日本は欧米と袂を分かつと、150年前の江戸時代さながらの最貧

 民国家に成り下がってしまうだろうと唱える人々が少なくありません。

 

 

   生活習慣・生活様式を変えるには、一つの勇気がいります。

 当社「クール便」を最高に活かすためには、特典が生きる年間購入への『計画』がベスト。

  近代ドイツ陸軍の父モルトケというひとは、この「計画」を見事に解説しています。

  いま皆さんはどんな計画をお持ちでしょうか。

 旅行にも、家族で食事に行くにも、計画をたてることは重要なことです。

 しかし、どうせなるようにしかならない。ウンがない、ついてないだけだと成り行き任せな人

 もいます。こういう人は、計画する努力、実行する努力、を怠っているだけです。

  仕事でも遊びでも、何かをする際には必ず計画を立て、それに基づいて行動することが

 必要です。成り行き任せは、実りのある人生を送れません。

  目標を達成すべく、まずしっかりとした計画を立て、目標達成に向け日々努力を重ねる

 ことで成果はあがるのです。初めに計画をたてる。しかる後に実行せよ!です。

 あなたの最高の財産、それは“自分”を創り出す『計画』である!

 ※当社特典とは、市販ポイント数倍に相当する期間購入・年間購入に相当する還元です。

 

 【ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラフ・フォン・モルトケ

  1800年10月26日−1891年4月24日 首相ビスマルク下のプロイセン王国の軍人。

    参謀総長になった当時、鉄道・通信の発展による戦争計画・作戦の変質に着目し、時代

  に対応できる高度な教育を受けた参謀の必要性を確信し近代ドイツ陸軍を誕生さす。

  彼の功績は参謀本部という組織を確立、今のラインとスタッフの組織論をうみだす。

  明治新政府軍幹部に大きな影響を与え、彼の弟子が日本陸軍創設を指導している。

 

 

 

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     〒520-3403 滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野902番地       

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